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● 永遠の趣味
「小学2年の頃、おじいさんがゴム動力の飛行機を作って飛ばして見せてくれたのがこの世界の始めでしょうか」
渡邉さんは穏やかな笑みを絶やさず話し始めた。国民学校の少年たちには、模型飛行機作りは正課の授業だった。飛行機・大空への憧れが国策として醸成された時代、渡邉さんのウデもぐんぐん上達。フリー・フライト(FF)のグライダー、ゴム動力のA-1などを製作し、各校対抗の競技会で代表が務まるほどに。中学生のときに終戦。福岡にも米軍が進駐し学校の体育館が接収された。その中に模型を楽しむ米兵たちがいて、交流が始まった。見たこともなかった機体に心が躍った。
「1947年春に完成させたUコン機は、父が買ってくれたOS-K6型を積んだスケール機エアロンカ。その後の愛用機は、Uコン速度競技のスクリーミング・ディモン、曲技競技ではチーフなど。米兵からは貴重なドゥーリング61、ダイナジェット(パルス・ジェット)などを入手し、もっぱらスピード競技を目指していました」
1949年、初の公式競技/日本模型飛行機競技連盟全国大会九州地区予選で優勝。模型の師・九大の佐藤博教授に引率され、夜汽車に揺られて上京、全国大会に臨む。50年、FF部門でぺイロード競技1/2Aオープン級2位。1951年、Uコン・スピードD級、ジェット級/セニア優勝など3部門で優勝、1部門3位の好成績を達成する。
福岡商大(現福岡大学)3年時に航空再開となり、航空部に所属、北九州の曽根(現北九州空港)で活動していた。プライマリーの全盛期で10mも飛び上がれば、皆が驚喜した。
「中学時代、いつも上級生のゴム索曳航に駆りだされるだけで、なかなか飛ばせてもらえませんでした。やっと自分の番が来た!と思った頃に練習が終わる。結局、大学の航空部でも実際に飛んだ回数はそう多くなかった」
飛びたい、と思いながら飛べなかった日々、思いは複雑だった。
「ふっと思ったのです。職業と趣味は分けておこうと。仕事にしてしまったら趣味ではなくなる。ですから、飛ぶことは永遠の趣味にしておこうと」
●種蒔く人
大学卒業後、渡邉さんは福岡市の中学教員に。職業・家庭科(現今の技術・家庭科)を担当。初赴任した中学でさっそく模型航空クラブを創設、指導に当たった。
「教育というのは、様々な可能性を引き出すことだと思いますね。今どうか、ということでなく、遠い将来に向かって種を蒔いておく。クラブに入って、その後国際線のパイロットになった生徒もいますし、大手自動車メーカーの技術屋さんとして成功した者もいます。彼らにとって模型や空は、人生選択のひとつのきっかけにはなったのでしょう」
教員冥利、と言う。教職に就いて2年目の昭和30年、渡邉さんは選ばれて、文部省/日本航空協会共催「第1回全国模型教育指導者講習会」に派遣された。敗戦から日浅く、航空再開後わずかしか経っていないこの時期、講師陣の中には木村秀政氏らの名もあった。日本の科学技術振興に賭けた、時代の息吹が伝わってくる話。文部省肝入りの講習会に選ばれた人々の責任感や自負も、相当なものだったろう。
●RC模型時代のパイオニアとして
「1955年前後に刊行されていた『KIMAC
News』に、小川精機(株)初代社長の小川重夫氏が今後の模型としてRC飛行機の記事を書かれたのを読み、新しい時代が来た!と思いましたね」
常に模型界第一線に立ってきた渡邉さんの反応は早かった。
「1955年、当時の福岡模型飛行機クラブの田崎会長さんと2人で、高価だった三鴻通信工業の送受信機[スーパー・テレトロール]を購入しました。民間ではまだ電波が自由に使えない時代で、米軍基地内で使わせてもらいました」
価格は月給の3ヶ月分。しかし、これを搭載した渡邉さんのRC1号機「ウインディー」はエンジン始動と無線機のチューニングに手こずり、ついに飛び立つことはなかった。成功したのは2号機のOSミニトロン、KO09ディーゼル搭載の加藤無線飛行機(MK)製キット「スーパータイガー」。
「衝撃的な感動でしたね。FF機は回収が大変ですが、RC機は間違いなく我が手に戻ってくる!」
初のRC競技会出場は1960年、第1回全九州RC模型飛行機競技大会だった。「ペリジー」、「トーラス」、「クルセーダー」、「STY-X」などで出場、以後第10回大会まで現役選手として活躍した。更にRCヘリコブター、RCグライダー、RCスケールモデルと全九州RC模型競技大会の種目を次々に開拓し、ファンのレベル向上へつなげていった。
●“Skyray”
大型模型・ダグラスF4D-1“Skyray”は、全長195cm、スパン145cm、スケール約1/7。製作着手から10年、いまだ未完成のこの「空飛ぶエイ」に、届いたばかりのデンマーク製SimJetエンジンを装填しながら渡邉さんはいたく楽しげだ。
「実は、最初に製作したSkyrayはUコンでした。1951年刊行の『航空情報』第3集に収録された、『超音速で上昇力抜群』という書き出しの、艦上防空戦闘機ダグラスXF4D-1の写真と三面図に感動したのです。この機体は、リピッシュ博士(ドイツ)の端正な無尾翼機のアメリカ版。敗戦国ドイツの航空遺産の継承を垣間見たようで感激し、未経験だった内装エンジン・無尾翼機の、コントロール・ライン版フライング・スケールモデルに挑戦したのです」
桐・檜を主材に、進駐軍のモデラーを拝み倒して手に入れたダイナジェット・エンジンを搭載、スピード記録樹立も狙った。1953年完成、初飛行。塗装にもこだわり、その後に判明した資料で再塗装も。
「1993年に入手したアメリカの資料で構造や内装の詳細がわかるようになり、準備段階にあったラジコン版Skyrayの製作が本格化しました。フランス製JPXジェットタービン・エンジンは1992年8月に運転に成功していましたし、胴体や引込み脚などの素材はアメリカから11月に届いていましたが、切り出した複雑なラインの胴枠が胴体にうまく合致しなかったり、操舵機構などのトラブルが生じたりして解決が遅れ、いつしか10年が経ってしまいました」
Model Specialties Co. U.S.Aから入手可能なこの機体は愛好者の特注に応えるもので、胴体コンポーネント及び主尾翼コアのみ。木部、金属部品は一切含まれておらず、逐次別途の製作を必要とした。
「最初に搭載を予定したJPXジェットタービン・エンジンはプロパンガスを燃料とし、始動にはスキューバダイビング用ボンベが必要なので、飛行場所までの運搬には安全対策に相当気を遣います。運転を電子制御化し、灯油を燃料とすることでこれらのボンベは不要となります。結局、2倍の推力を出す最新のSimJetエンジンを搭載することにしました。さすがに10年の進歩を見せつけられましたね」
今、塗装の段階に。完成予定は今年末。1つの機体への思い入れが半世紀に及ぶ。
●飛翔あざやかなり
6月、渡邉さんの庭では、樹高6mに成長したオガタマノキに、ミカドアゲハが乱舞する。オガタマノキはミカドアゲハの食葉。この稀少な蝶を幼虫から育て羽化させる渡邉さんは、蝶・トンボなどの飛翔生物の研究でも知られる。
「いくつになっても、航空機が空を飛ぶ姿には心底魅せられます。自然界の鳥や昆虫の飛翔も実に美しい。空中を身を翻して飛ぶ機能美。自力で飛べない分、一層惹かれますね」
ミカドアゲハとのつきあいは、教員2年目に生徒たちと羽化に取り組んで以来。これも半世紀を経た。
1993年、オーストリアでのF3C世界選手権にリポーターとして同行以来、海外に行く機会が増えた。1997年からは、FAI/CIAM国際模型航空委員会日本代表でもある。
「どの国にも、熱心に模型の未来を語る人がいます。最近大変印象的だったのは、きちんとした模型教育のカリキュラムを作り、その教育を幼少時からシステマティックに行おうというアメリカの発表です。航空王国アメリカでさえそうなのです。飛行機の歴史はわずかに100年。日本の航空文化育成はまだまだこれから。いま国内の模型愛好家は2万人とも言います。航空の底辺を広げるに模型はピッタリなのですよ」
渡邉さんは、九州RC模型航空連合会始まって以来の事務局長だ。組織運営の裏方も長い。HPを開けばいつも、その時宜にかなった報告や的確な提言に出会うだろう。パイオニアとしての責任感、そして自負が垣間見える。模型航空ひとすじに、あざやかな航跡が描かれた。
九州RC模型航空連合会URL http://www.vit.or.jp/~tomo/krcl/index.html |