|
●航研機レプリカ製作
「こりゃあちょっとハマりすぎてますねえ」
前田さんが、製作中の尾翼を愉快そうに見上げている。航研機レプリカ・尾翼は、人間の背丈を遙かに超え、さすがの迫力。
「ナアに、こんなもんだって。ウーン、まあまあってとこかな」
佐賀県唐津市にある造船所の一角。尾翼の向こうに、修理中の漁船が姿を見せている。ハマっていると言われたのはこの造船所の主、青いツナギ服のMさん。Mさんの趣味は航空機模型製作。必然、1/1で作る機体への思い入れは強く、つい熱心になるようだ。尾翼取り付け部分の胴体はアルミの鍛造だが、打ち出されたアルミ肌と微妙なカーブが、作業の難度と仕事の丹念さを語る。
「今回のレプリカ製作が可能になったのは、父の時代の人力飛行機の方々がいたからなんです。この方たちがいなかったら、とても引き受けられませんでしたね。皆さんがやってもいいよ、と言ってくれたおかげです。私は工程管理するだけ」
父・建一氏は1969年、福岡第一高校の生徒たちと人力飛行機を製作している。佐賀県目達原・自衛隊飛行場でのテストでは、滑走80mで浮き上がり、地上70cmの高さを約10m飛んだ。人力飛行機の仲間というのは、建一氏のこの時の教え子たち。
「いーや、まったく大変な仕事ですよね。航空機のカタチはしていますが、これは実機ではない。でも、できる限りやる、もうそれだけですよ」
そう言うレプリカ設計担当のAさんも建一氏の教え子の一人。卒業して神戸の(株)新明和に入社、飛行艇の設計をしていた。今は故郷に戻り、船舶設計会社を持つ。
「オヤジさん(建一氏)は偉大でしたね。ともかく授業も変わっていた。まず生徒には何でも自由にやらせてくれる。だけど、絶対にウソをついてはいけない、と言われましたね。マネをするのは恥じゃあない、でもまずは自分の頭で考え自分のやり方で作れ、そういうことを徹底して教えられました」
航研機復元計画はバブル末期1998年に旗揚げした。今、時代がすっかり違った。軋轢は末端に来るのが世の常だ。関わる人々には、やるせないものもあることだろう。笑顔のまま、前田さんは大きく頷いた。ほんとは飛ぶ機体を作るのが信条。だが、求められれば最善を尽くす。
「いや、思いをね、ぐっーと込めて仕事しとりますよ。ハイ」
●船長さん
「ともかく私、昔から遊ぶのが好きなんですよね。中でも一番遊んだのはヨットかも知れませんねえ。オヤジは戦後はヨットも作っていましたからね。父のヨットに乗ってよく遊びました。今は10人乗りのクルーザーを持っています。毎年夏には鹿児島県硫黄島の三島カップや、奄美大島・加計呂麻島のシーカヤックマラソンに参加します。両方とも、サラリーマン時代に私どもが提案したもの。加計呂麻は今年で10回目。全国からの参加数が300艇にもなる規模に成長しました」
白いポロシャツにマリンブルーのパンツ、濃紺の帽子、白いものの混じったあごひげ。肩からはストラップの付いた眼鏡。どこやら海の匂いが漂う前田さんは、実は海洋開発の企画設計が本職だった。離島の観光開発や島興しの事業をいくつも手がけた。奄美の海を舞台に、仕事と楽しみが交錯した幸せな時代を持つ。
●関西国際空港建設の裏方として
「あんまりよく遊んでたもんですから、大学に入ったのは2つ年下の2浪の弟と一緒でした」
高校は福岡の名門を出た。その後、少々惑う。本人の弁によれば、何したらいいかなあ、何したらいいかなあ、と思っているうちに4年経っていたのだそうだ。九州大学の故佐藤博博士は父建一氏と共に優れたグライダーを世に送った方だが、幼い頃から知っている博士の薦めで、名城大工学部に進学、建設工学科を出た。
「私は生来、ミリやグラムの世界の人間ではないんです。メートルやトンで間に合う土木の世界が向いてる。でも、会社に入って配属されたのは水理実験の分野でした。東工大に1年半、内地留学です。実験に明け暮れたこの時、細かなデータの集積をみっちり仕込まれました」
勤務先の(株)テトラは、波の及ぼす陸地への影響を緩衝するテトラポットの会社だが、島や海洋にまつわる開発事業も幅広く手がけていた。その中で、前田さんが携わった最も大きなプロジェクトは関西空港建設だ。大阪湾に浮かぶ巨大な人工島。そこで(株)テトラの果たす役割は大きかった。前田さんは、この巨大開発プロジェクトの環境アセスメントの事務局を担ったのだ。
「大学教授、お役所のエライ方ばかりを束ねて、分科会がいくつもありました。日程調整から議事録に至る細かな仕事のマネージメントが私の仕事。でも、自分が動くのじゃない。自分が動いては大局は見えませんからね。部下の能力を正確に読みとって動かす。先を読んで手を打つ。この時の仕事が航研機のプロジェクトでも大いに役立っています。どこで、何が求められているか、瞬時にわかりますね」
前田さんは今、九州地区のスポーツ航空団体を1本化し、NPOとする準備を進めるメンバーの一人。拠点となるのは久住高原滑空場。計画は久住町を巻き込み、観光による地域開発の一環として相応の予算化ももくろむ。企業人としての前歴が、リタイア後の遊びに有効に生きる。
●工房再建
1985年、福岡西区にあった父建一氏の工房を建て替えた。東京勤務が長く、福岡を留守にしている間に120坪あった工房の屋根が抜けた。雨漏りがひどく、天井から吊してあったグライダーが腐り始めていた。双胴のグライダーSM206
JA0008を始めとする、前田航研工業が誇ったグライダーの数々が、無惨な姿を晒すのに耐えられなかった。
「天井を眺めて、ただもう何とかせんと、という気持ちでしたね」
120坪あった工房は建て替えで40坪になったが、SM206や人力機、駒鳥、やまどりなどのグライダーが天井からズラリ吊された光景は壮観である。SM206の翼は、前縁木部が腐り、繊維がザックリと現れている。翼の機体番号0008がその歴史的価値を語る。
「結局、何というか、血なんでしょうねえ。いつのまにかグライダーの設計、製作を手がけていました。門前の小僧はやっぱり経を読んでしまった!というわけ。遊びながら、毎日オヤジの仕事を見てたんですもんね。教わらなくてもすべて分かる。もう5機レストアし、飛ばしました。佐藤先生と父が作った九州航空会(後の西日本航空協会)という組織もありましたので、それを継承し再出発したのも、工房を建て替えた1985年でした」
1999年、定年を前に58歳で退職した。やり残したことをするために。
●あだ名はトド呂
西日本航空協会のメンバーは今24名。最年長は80歳、最年少は25歳と幅広い構成。仕事で日本各地に散った仲間も、何かと言っては帰郷し、グライダー談義に花を咲かせる。活動は、滑空・レストア・アウトドアの3分野にまたがり、年中行事も目白押しだ。工房脇の前田家は専らクラブハウス。レストアともなれば、泊まり込みのメンバーの宿舎にもなる。
「楽しいことはみんなでやった方がもっと楽しい。私はね、日本人はもっともっと遊ぶべきだと思いますね。この夏からは、SM206をレストアします。かなり傷んでしまったので、レプリカ製作ということになるのですが。双胴のグライダーというのは世界に1つしかありません。何年か後にはみんなでこれを担いで、ヨーロッパのビンテージグライダー・ラリーに行きたいですね。あっちじゃ驚きますよ、きっと」
前田さんのあだ名は、トド呂。大きな体、ゆったりした動き、のんびりした話しぶり。ナルホド。緻密なアタマをつゆとも見せない。
取材後東京に戻ると、メールが来ていた。
「今晩は。トド呂です。スピード取材お疲れ様でした。こちらも居眠りなどして失礼いたしました。あまり無理しないように心がけておりますのでツイツイ気が弛みます。遊びをせむとや生まれけむ。
人生楽しもうよ、もっと。が私の根底にあるようです。デハ又」 |