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●「雷電」まで
「ずいぶん久しぶりに見ます。さすがに感慨深いものがありますね」
やわらかな電灯の光に照らされて、1/20に描かれた「雷電」が姿を現す。『航空情報』1972年1月号に、日本精密図面シリーズとして初めて掲載した原図は5枚。30年の歳月を経て、トレーシングペーパーはクリーム色に変色した。だが、烏口で引かれた機体の描線はゆるぐことなく、かえってくっきりと際立ち、その存在感を強くする。
*『精密図面を読む』収録の図面は1/48。原図は1/20〜30で描かれる。
この「雷電」の前に、もう一つの話がある。30年前のある日、松葉さんは、自分の描いた「隼」の精密図面を抱えて、『航空情報』編集部を訪ねた。
「当時、仕事で度々アメリカを訪れており、暇を見つけては趣味の航空機模型の店を廻っていました。キットを買って、宿に帰って早速削ってみる。でも、どうも設計図通りにはできあがらない。持ち前の探求心が段々に頭をもたげ、ついに自分で図面を引いてみることにしたのです。『隼』を描いたとき、作図に手こずり、何かもっとよい資料がないものかと思って、厚かましくも航空情報・編集部を訪ねた次第です。今から思えば、盲者蛇を怖じず、というところでしょうね」
松葉さんはいたく謙遜する。だが、「隼」の図面を見た編集長の故青木日出雄氏は、それまで見たことのない図面の精度に驚き、その場で『航空情報』への連載を提案した。編集部にある資料も、自由に使ってよいことになった。
「余りの展開の速さに驚きました。でも、これも何かの巡り合わせと思ってお引き受けしました。そしてね、やるからにはそれまでにないものを出したい。そう思いましたね」
●新時代の扉を開く
描く意欲が、堰を切ったように溢れた。第1作「雷電」は、それまでに誰も描いたことのない5面図となった。側面図・正面図・平面図・下面図に、後面図を加えたのだ。資料を調べ尽くして反映した図面は、その精度においても前例のないものになった。描線の数だけでも、それまでのものとは甚だしい差がある。生業があっての仕事、時間も十分に掛けられた。「シロウトは怖い」と、プロの図面屋が震え上がった。
「模型を作る者にとって、すべての側面が見えるなら、もう最高。ならば後ろも描いてみようと思ったわけです。それに構造が正確に把握できるようでなければ、図面とは言えません。できる限り精密にと心がけました」
松葉さんにとって、本業のステレオやラジオのデザイン同様に、図面もまたニーズに応えてこその仕事。プロなのだ。これ以後、精密図面のすべてが松葉さんの図面を踏襲するようになる。そうでないものを、もはや誰も買わなくなった。『航空情報』連載第1作の「雷電」は、航空機精密図面の世界に新時代の扉を開いた。
●奇しき縁
松葉さんは、昭和4(1929)年大阪鶴橋に生まれた。やがて世は戦時一色に。松葉少年の飛行機への憧れは強く、学校のノートは飛行機の絵で埋め尽くされ、模型飛行機にも熱中した。だが戦闘機乗りを夢見た航空少年は体が弱く、やむなく設計家になろうと決意、昭和17(1942)年大阪府立航空工業学校機体科(現大阪府立布施工業高校)に入学する。航空力学や飛行機製図の実習に、飛行機設計家への夢が大きく膨らんだ。
「学校の格納庫に行きますとね、複葉の三式艦上戦闘機や94式水上偵察機がありました。銀色の機体に近づくと、オイルの匂いに金属の匂いが入り交じった独得の匂いで、全身の血が騒ぐ、という感じでしたね」
しかし、敗戦。航空少年の夢はあえなく崩れ去った。卒業後、展示装飾デザインの仕事が来た。百貨店などのディスプレーを担当する当時まったく新しい職種だ。デザイナーとしての出発だった。
「ある日、アメリカの工業デザイナーであるレイモンド・ローウイが書いた『口紅から機関車まで』という本に出会い、“インダストリアル・デザイナー”の存在を知らされたのです。そしてひらめいたんです。工業デザイナーになれば、なんだってできるぞ、飛行機のデザインもできるかも知れない!って」
折から、新しく家庭電化事業に進出した三洋電機が工業デザイナーを募集していた。松葉さんは渡りに船と応募、ラジオ工場に採用されてデザインを担当することになる。
「デザイナーには機械のメカニズムは分からないだろうと思っていた技術部の幹部は、私がデザインした構造図面を見て驚き、認識を改めてくれました。工業デザイナーは芸術家であると同時に技術家でもあると評価してくれたのです」
昭和41年、東京三洋電機(株)にデザインセンター部長として着任。勤務地は群馬県太田市にあった旧中島飛行機工場跡。行ってみて驚く。デザイン部が置かれていたのは、元中島飛行機設計開発室、その部屋であった。
「正直、因縁めいたものを感じました。すでに精密図面を書き始めていた頃で、ここで最初に手がけようと思ったのは、やはり『隼』でしたね」
*中島 キ43 1式戦闘機「隼」1型甲は、群馬県太田市内にあった中島飛行機陸軍機工場で設計・製造された。『精密図面を読む』第1集の第1番機として収録。
●資料
松葉さんの仕事場のドアを開けると、目にするファイルの量に圧倒される。3方の壁面に天井まで架かれた書棚、そこにズラリと並ぶファイル。背にはワープロ打ちした機体名。この30〜40年の間に松葉さんが足で集めた、コピーによる資料だ。開けば、たとえば、クリアファイルに収められた様々な角度からの機体写真に出会う。1ファイルに1機、写真は数十カットを下るまい。
「あの精密図面の元は、どうやって手に入れるのでしょうね」
そう聞くモデラーたちは多い。主なものは「取扱説明書」だそうだ。それらも、分厚いファイルに整然と仕分けされている。国産機については、公文書館、国立国会図書館、自衛隊・戦史研究室の蔵書などから、丹念に調べ出した。外国機は、その国にいるマニアが、素晴らしい精度の資料を提供してくれる。とりわけ、アメリカという国の航空機についての懐の深さには、感嘆するという。
「雷電の取扱説明書をお見せしましょう。こっちは最近インターネットで取り寄せた、イギリスのブラックバーン ロックの取扱説明書です。こちらは、アメリカのムスタング。おもしろいでしょ。各国それぞれに特徴がありますね。日本はポンチ絵のレベル。外国機のは完全にテクニカル・イラストレーション。そういう国と戦っていたわけです。しかし、どんな機体も、慈しむべきものを持っていますね。図面を引いていると、設計者の思いが痛いほど伝わる。売れる飛行機を作れと要求する経営陣、理想を追求する設計担当者、そのせめぎ合いさえ聞こえるほどです」
松葉さんの図面には必ずデータが付記される。たった1つの寸法が分からないために、図面ケースに眠っている機体もいくつかあるという。
「図面屋にとって寸法を入れるのはある意味で自殺行為。でも、あくまで正確さを期したいのです。データは、可能な限りの精査を試み、書き込んでいます」
●世界に繋がる
最近、アメリカの航空雑誌編集者から、精密図面集の全巻を買いたいというメールが入った。交流の無かったイギリスの航空博物館とも、メールでの資料請求を重ね、今は担当者と親しく交換できる。日本機の資料提供を求められ、送ったりもする。
「インターネットの時代ですね。図面を通じて世界中の人々に繋がって行く、私の大きな喜びです。人間、何か真剣にやっていれば、いつか必ず然るべき場所に行き着く。そんな気がしますね」
手がけた図面はすでに200機を超える。『精密図面を読む』も7冊を刊行。2005年に10集で完結の予定だ。少年の夢は叶った。 |