|
植村直巳冒険賞受賞者・神田道夫さんは、これまでに熱気球による数々の世界記録を樹立、1990年には世界で初めてエベレストにも挑戦している。この成功はならず、エベレスト越えは神田さんの最終目標という。大空にふわりと浮かぶ熱気球の優雅な飛行に憧れる人は多い。だが神田さんのはあくまでアドベンチャー、冒険だ。「世界初」や「世界一」を求める高空への飛行に駆り立たせるものは何だろうか。
● ナンガー・パルバットを越えて
2000年10月、神田さんはネパール・中国国境に位置するナンガー・パルバット山越えを決行、成功した。ヒマラヤ山脈西端にある標高8,125mの独立峰だ。懐の深い山を飛びたいと、20年間温め続けてきた計画だった。
「パキスタン北部のチラースという町に待機すること6日目、深夜11時を回った頃に、パキスタン気象台と日本航空のオペレーションセンターから、明日、山越えに適した偏西風が吹きそうだとの情報が飛び込みました。風向きは一時的なもので、どのくらいの時間吹くかも不明です。しかし、ともかく朝3時には起床、熱気球マンボウ号の準備にかかりました」
マンボウ号とは、オーストラリアで長距離世界記録を、カナダで滞空時間世界記録を達成した神田さんの愛機。AX-10(中重量級)。これに、バーナーを燃やすためと人が吸うための大型酸素ボンベを搭載する。標高8,125mを越えるには9,000m以上の高空を飛ばねばならない。酸素は必需品だ。バスケットには他に、計器類、GPS、衛星電話、ビーコン(緊急時位置発信装置)、サバイバルキット、ビデオカメラ、スチールカメラなども積み込んだ。相棒の竹沢広介氏と共に搭乗、午前7時07分離陸。
「風向きを入念に確認して離陸したのですが、東南東に進むはずの機体が南東に流されていることに気づきました。離陸後30分、高度はすでに8,200m。さらに現地調達した酸素ボンベに不良が発生、私も竹沢さんも酸欠で意識朦朧となり、気球もバーナーに点火できないために高度が6,000mにまで下がっていました。高空でのアクシデントは今までの経験でたいてい読めます。ともかく冷静に対処すること。レギュレーター(酸素送り出し装置)の不具合を調整し、朦朧としながらも高度を確保、ほっと落ち着いたところで周囲を見ると、なんとそこにはヒマラヤの大パノラマが広がっていたのです」
高度9,950m。360度、遮るもののない視界。眼下に遙々と繋がる神々しい山々。指をさせば、その指の先に、今越えたナンガー・パルバットの頂きがある。
「この感動が、私を次々とアドベンチャー・フライトに駆り立てるのです。まだ誰も見たことがない壮大な世界をこの目で見る。気球という何の力も持たない、ただ浮かんでいるだけの機体に生身の体を預けて、すべてを自然の意志に委ねる。まさに大いなる天意の中にある、と思う瞬間です」
この感動もつかの間、最大の難関は着陸だった。風に流されたため予定した着陸地の変更を余儀なくされたのだ。着陸予定地は、常に緊迫した状況にあるインド・パキスタン国境。インドに入る前に着陸せねばならない。下方からパンパンという威嚇射撃らしき音も聞こえる中を、午前10時過ぎに国境手前の尾根に着陸した。飛行約3時間。国境警備兵たちが駆け寄ってくる。パキスタン政府には事前に飛行許可も取り、着陸予定地点の国境警備隊にも連絡を入れてある。が、組織の末端にまでこの冒険が認知されているかどうか。
幸いにも、警備兵たちは極めて友好的で、この後、標高差2,000mの下の村まで機材を下ろす際も協力を惜しまなかった。零下40度の成層圏から帰還した神田さんらには、小さな肉片の浮かぶ温かいスープとチャパティがふるまわれた。
「言葉はまったく通じません。士官クラスがやって来てかろうじて英語が通じ、身振り手振りを交えて冒険を語ります。みんな興味津々。小さな国際交流ですが、この瞬間が一番ホッとします。人間ってやっぱりあったかい存在なんだなあと実感しますね」
●エベレストをめざす
28歳で気球を始めて2年目の1979年、初めて富士山越えを果たした。それ以来、神田さんは山越えの魅力にとりつかれた。元々山好きで、20代後半には日本アルプスのかなりの山に登っていた。その頂を、遙か下方に見ながら熱気球で越える。山を知るだけに感動は格段だった。さらに高い山にはもっとすごい感動があるに違いない。その思いは、やがて世界最高峰エベレストに向かう。1990年5月、世界で初めての熱気球によるエベレスト越えに挑戦する。
「1984年にはAX-6(中軽量級熱気球)での長距離世界記録419kmを、1988年には4回目の挑戦でAX-7(中量級)の高度世界記録12,910mを達成しており、長距離、高々度共にエベレスト越えの自信が深まりました。あるTV局の支援で膨大な資金調達のメドもつき、中国、ネパール両国の協力も取り付けられた。こんなチャンスは2度とはない、そう思って決行しました」
実はこの時、ネパール国内では民主化を求める政治運動が流血騒ぎにまで発展、政情不安は熱気球飛行にも重くのしかかってきた。神田さんはしかし、あえてフライトを決行した。壮大な飛行の実現には気運も重要な要素だ。
「標高4,300mのチベット・ヤレ村から離陸。AX-11クラスの気球に、私、副操縦士、カメラマンの3人で乗り込み、高度1万メートルまで上昇しました。しかし、上空の風は弱く、飛行を断念し降下。着陸間際には、運悪く気球球皮が岩肌に接触して破裂、200mほど滑落し3人とも各部を骨折してしまいました。失敗でしたね」
1年後に、イギリスのバルーン・チームがエベレスト越えに初成功する。神田さんらの飛行は、失敗とはいえ世界初の挑戦だった。この時にできた中国側支援者らの協力を得て、1993年2月には約8時間を費やし東シナ海横断に成功。AX-8クラス長距離日本記録940kmを達成した。それは、次の1994年オーストラリア大陸横断、AX-10クラス長距離世界記録2,366.1kmに繋がる。こうしてその後の飛行のすべてがエベレスト再挑戦に向かう。成功したナンガー・パルバット山越えも、まだまだその途上の飛行なのだ。
● 天意と自己責任
「ヒマラヤのような高い山々を飛ぶときには、やはり人間の想像もできないような、何か超然としたものをご覧になることもあるのでしょうか」。
冒険飛行の数々を披瀝した神田さんの講演の最後に、年輩の質問者がおもむろに尋ねる。
「一旦飛び上がってしまえば、飛ぶこと、それはもう天の意志です。その中に抱かれてあるんだなあと心から思えますね」
神田さんは淡々として答えた。自然に対し謙虚であることこそ成功の勝因とも言う。
「しかし、それはあくまで自身の最善を尽くした上でのことです。計画は慎重が上にも慎重に、飛ぶ直前まで可能な限りの気象データを集めて分析、サポート隊との万一の場合の調整など、飛ぶ前に飛行のほぼ90%が済むといっていい。飛行には自分のこれまでの経験をすべてつぎ込みます。一切が自己責任の世界でもあります」
準備や気球操作に話題が移ると、説明は数値を交えて緻密。語り口は早く、温和な表情に精悍さが加わる。上空1万メートルを超える高々度飛行は、夜間には零下40〜50度にも。酸素不足や減圧による神経障害、幻覚などには、酸素マスクをつけて闘う。そこはやはり極限の世界なのだ。
●冒険は追い続ける夢
神田さんは、埼玉県川島町の町役場の職員。自宅周囲には広々と水田が続く。訪ねると、居間には次の冒険のための資料があちこちに積み上げられていた。飛行計画書もすでに完成、実行は1年後。着陸予定地の実地検分も済ませた。開いたアルバムに、その地で出会った次の冒険のサポーターたちが笑顔で並ぶ。
「一つの冒険を終えると、またすぐに次の冒険を夢見る。年を取ったからでしょうか、飛ぶことの感動はもちろんですが、この頃は特に、冒険のたびに増えていく人との繋がりが無性に嬉しい。飛んだ場所には実に多くの友人ができました。彼らがまた次の冒険を支えてくれます。冒険は一人ではできません。共に夢を見てくれる人々のためにも、必ず成功させる。無理をせず、何度でも引き返し、挑戦します」
しかし、冒険はあくまで神田さんの、いわば道楽という。
「公務員として働き、生活の基盤を固め、家族の理解も得て、はじめて出て行けます。家族には感謝あるのみですね。でも、夢を持つことは誰にも与えられた自由です。ならば私は大きな夢を見たい。生きている限り、その夢に向かってどこまでも挑戦し続けたいですね」 |