後藤加代子の悠遊レポート・02

在任30年 その航空人生を貫くもの
前関宿滑空場長・佐藤一郎さん
●Profile
佐藤一郎さん
Ichiroh Satoh

1934年東京生。高校2年のとき学生航空連盟に所属、グライダーを始める。大学時代は、滑空大会での優勝経験も多い。卒業後は萩原滑空機製作所に就職。

H-22、H-23Cの製作に関わり、H-32設計では中心的存在であった。1967年(財)日本航空協会に入り、1999年10月に退職。この間の大半を、日本航空協会本部(新橋)と関宿滑空場長とを兼務し、航空スポーツ全般についての仕事に携わった。1968年に第1期・運輸省(現国土交通省)航空局・耐空検査員に就任、現在も活躍中。

赤いチェッカー・フラッグをなびかせた4駆が、緑の滑空場を駆け巡る。運転席に座るのは、サングラスの小粋な壮年、前関宿滑空場長・佐藤一郎さん。リタイア後の今も、グリーン・フィールドの点検を欠かさない。次には、曳航機ロバンに搭乗、グライダーを曳き、飛び立ってゆく。 曳航回数は、多い日には20回も。実に精力的だ。開場以来30年、関宿滑空場を文字通り生み、育てた。滑空界に数々の業績を持つ華麗な航空人、その人生を貫くのは安全フライトへの祈り。

●Uコン日本一の航空少年

佐藤さんの模型歴は知る人ぞ知る。始まりは昭和16年、国民学校1年生。戦時下、小学校の正課には模型飛行機製作があった。4年式や6年式グライダーなど、竹ひごや紙が材料だが、年齢に応じて製作内容が高くなる。次々見事に仕上げ、佐藤さんの飛行機への興味はどんどん醸成されていった。

敗戦後は、まず、アメリカから入ってきたUコンが佐藤さんの心を捉えた。Uコントロールと呼ぶ模型飛行機。終戦当時、GHQにより一切の航空活動が禁止されたが、模型だけはホビーということで許されていたのだ。けれど、それはどこにも売ってはいない。佐藤さんは自分で木を削り機体を製作。ちょうどグライダーを始めた頃だった。

どもですからね、お金があるわけじゃない。翼はタンス屋さんに行って桐の端切れをもらう。胴体は風呂桶屋さんから。風呂桶の残りの桧やヒバ。この匂いがとてもいい。プロペラやエンジンマウントは下駄屋さん。朴の木は軟らかで加工しやすいからね、うまく曲線が削り出せる。不思議なものでね、木っていうのは、削っているとひとりでに美しい曲線が生まれてくるんだよ」

その機体をもって神宮絵画館前での日米Uコン親善大会に出場。最初はどうしてもアメリカの機体に勝てない。

合が終わると、すっ飛んでいって、テキさんの落としていく壊れたUコンのプロペラを拾って来るんですよ。どうやったら彼らのように飛ぶのか、壊れた破片から研究する。何度も何度も木を削り直す。厚さ1ミリまで削ります。そのくらいになると、向こうが透けて見えるよね」

技術力が想像できる話だ。やがて佐藤さん製作のUコンはアメリカの先鋭機をゆうに凌ぎ、優勝。

キさんが驚いてね、どんな機体になってるんだろうって、見に来ましたよ」

全日本模型選手権大会では連続優勝を果たした。塩谷製作所の最新エンジンを積んだ佐藤さんのスピード機1号機は、当の塩谷製作所が記念にと譲り受けていった。

この腕を見込まれた佐藤さんは、やがて根本航空機模型製作所のソリッドモデルの製作にスカウトされる。佐藤さんがアルバイトで製作した白木の機体は、熟練の大人の手で彩色されて銀座の天賞堂に納品された。その多くが、米空軍やアメリカの航空機メーカーに納められたという。後に萩原滑空機製作所に就職、たくさんの優秀なグライダー製作に関わる素地は、すでにこのあたりにあった。

Uコントロール。全木製。1952年、模型の全日本選手権大会・スピード部門での優勝機。当時はクリア仕上げの木目の出た機体。半世紀後の今、飴色に。矩形の主翼、わずかにテーパー翼となった尾翼などは、すべて勝つための佐藤さんのオリジナル。片方の翼端だけにある小さな砲弾型木片も、着地したとき翼が破損しないようにした独自の工夫。時速は最大時200km/hという。プロペラとスピンナーは、エンジンと共に他機に転用されて失われている。
ソリッドモデル。本機はノースアメリカンのF100スーパーセーバー。全木製。50年の歳月にもビクともしない。よく見ると、銀色に塗装された表面には下の木目がうっすら現れている。刷毛ムラなどは皆無。この絶品の塗装も天賞堂に買い上げられた大きな理由。スケールは1/48。モデル実寸はスパン約25cm、ピトー管を含む全長約32cm。

●在任中の死亡事故ゼロの誇り

くはねえ、管理する、というのじゃあなく、とにかくどんな人にも楽しく安全に飛んで欲しい。いつ誰が来ても、分け隔てなく楽しく飛んでもらえるよう、精一杯努力する。ぼくが誇れるとしたらそれかな。お陰様で在任中には大きな事故は一件もなかったね。30年、過ぎてみればアッという間のようだけど、事故を起こさないってことは実は大変なことなんだよ」

佐藤さんの仕事で特筆すべきことは、初心者の搭乗できる機種について、その難易度に合わせて、関宿滑空場における最低飛行経歴の基準を設定したこと。

まり、どの機体にどの程度乗り込めばいいかを決めた。ここで飛ぶみんなもよくそれを守って、安全フライトに徹してくれている。感謝したいですね」

千葉県西北部の関宿町。(財)日本航空協会・関宿滑空場は、その地の江戸川左岸河川敷にある。日本一のグリーン・フィールドを誇り、滑走路は平行5本。都心に近い滑空場として、多くの社会人パイロット、学生たちに利用されている。週末には、関東一円から駆けつける社会人クラブのグライダーやモーターグライダーが、緑の河川敷に白くスマートな機体を見せる。曳航機に曳かれ次々飛び立つ白く長い翼。雄飛・滑空するその姿を見に、土手に集まる飛行機好きも多い。パイロットも観客も無音の美しい世界に酔う。その蔭に、30年にわたる佐藤さんの安全への熱いまなざしがあった。そしてそれは今も。
パイパー・スーパーカブJA3272。1953年アメリカ製。150馬力(普通、カブは135馬力搭載)。航空再開当時には、機体などはすべてアメリカ政府から日本に貸与された。スーパーカブも例外ではなかった。後に陸上自衛隊が所有。やがて用途廃止となって一旦アメリカに返却され、その後に日本飛行連盟に対し約30機が放出されたという。その最後の1機がこれ。黄色に黒のカラリングはパイパーJ3機のオリジナルデザインの一つ。曳航機として活躍中。
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