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オゴジョこらこらチョノゲが落ちた アネチャこちゃ向けカンザシ落ちる ひとつは薩摩の歌でありもうひとつは秋田の歌である。情景と歌の心情は同じだが、いかにも国振りが現われていて面白い。 方言を字にするのは難しい。その地方の人に言わせたら、もっと違う字になるのかもしれない。そのあたりはカンベンしてもらうとして解釈すれば、オゴジョは娘さんでチョノゲは手拭である。「娘さん手拭が落ちましたよ」と声をかけたら、振り向いた娘さんが「持ってもいない手拭が何で落ちるのか」と答えた。娘さんの表情が一瞬の絵になる。 「娘さんこっちを向いて簪がおちそうですよ」と声を掛ける。娘さんは答えない。簪に手をやったかもしれないし、顔を赤らめて小走りに逃げたのかもしれない。たおやかな空気が吹いただろう。声が後を追う。「簪ではなくて顔が見たい」。これも絵だ。歌麿ではなくて、春信のほうがきまると思う。 声を掛けたのはどちらも若い男だ。北でも南でも若い男は娘さんに声を掛けたい。きっかけは手拭でも簪でもいい。しかしうたごころとしては簪のほうが豊かだ。手拭ではいささか情緒に乏しい。 「思慮分別の囁きを、うるさいとばかりに払いのけ、本を読まずに読んだのは、女の目の色顔の色。覚えたものは凡百の、痴情痴態の限りなり」。放蕩児の歌ほどではないにしても、手拭も簪も、程度の違いであって若い男の思うことは知れている。 それより娘さんの反応が面白い。「持たぬチョノゲが何で落ちるのよ」、そう言った娘さんの目には、無礼は許さない決然とした色があったに違いない。気の強い薩摩オゴジョを思い浮かべる。 ひきかえ秋田オバコは無言である。たぶんどうしたら良いのか分からぬ風情であったろう。色が白く、受身で控え目な娘さんの姿がそこにある。 歌は文化を端的に示す。男は単純でストレートで、古今も無ければ東西も無い。地域の文化の深奥は女が作るのだ。 薩摩は男尊女卑の国だということになっている。これはほんの外皮に過ぎない。「持たぬチョノゲが何で落つかい」と女が睨むのが本当なのである。表の道路では三尺下がっても、いったん家に帰れば女房殿が天下様なのだ。薩摩オゴジョに迫力があり、男どもを叱咤激励してきた歴史があった。維新回天はシゴキ抜いた女たちの金字塔だ。 さりとて赤面して逃げる秋田オバコが、ただの意気地無しだと思ったらとんでもない間違いだ。あれはサカリのついた間抜けな男を捕らえるための擬態に過ぎない。彼女らは秋田を歴史に登場させるようなことより、優雅に暮らすほうが遥かに優れていると思っているから、男たちの尻を叩かないだけなのである。 お酒を飲む人可愛いな |
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