破れて山河あり。 唐の詩人杜甫は、滅びゆく人為のはかなさを永続する自然に対比してそう詠った。なるほど戦闘機は人為の結果である。だからこそ国破れ、健闘虚しく姿を消していった幾多の機種に感懐がある。

闘機は国民性を映す鏡でもある。国民性なら山河にも比較できよう。仔細に見れば敗れる遠因をそこに見付けることもできる。だがそれよりも、それを運用する術により多くの原因が見える。性能に優れ、それでいながら敗北を担った戦闘機に万感の想いが生まれるというものだ。

座を杜甫と同じに据え、第2次世界大戦の東西で勇戦むなしく消えた戦闘機を取り上げる。しかし何か確かなものを残したはずでもある。思えば杜甫の詩も題は春望だった。

翼烈伝 / 001
「国破れて戦闘機」

三菱 J2M3 局地戦闘機
「雷電」21型

雷電の精密図面

昭和20年2月19日午後3時、僕の家は燃えていて、遙か天空を雷電がB-29を追っていた。しかし勝負は歴然としていた。

1段2速の過給器が薄い空気に喘いでいて、ターボ・スーパーチャージャーが悠々と青空を横切って行く。1カ月もしないうちに次の家も燃えた。その日も厚木の雷電と、震天制空隊の鍾馗がB-29を必死に迎え撃った。

●異色戦闘機零戦●
零戦は鬼っ子である。三式艦上戦闘機からの海軍戦闘機の系譜に、零戦のような戦闘機は無い。やたら航続力が長く、どうみても今までと違う方向に走った戦闘機なのである。後継者烈風はものにならなかったから、唯一の異色戦闘機といってよい。

そもそも艦上戦闘機の第一の任務は、艦隊上空の直掩と艦上攻撃機や艦上爆撃機の護衛のはずである。零戦を除くすべての戦闘機はその性格であった。

ところが零戦は戦略戦闘機である。言い直せば敵地奥深くへ侵攻する戦闘機なのだ。もっとどぎつく言えば、侵略護衛を任務とする戦闘機なのである。

本家本元の艦隊も邀撃専門に作られていたから、零戦はオーバーに言えば、日本海軍が持った数少ない侵略的兵器かも知れない。要求に長距離援護が強く意識されていたのは確かである。そしてその陰が局地戦闘機であり雷電は零戦の陰として作られた。
横文字を読むと大抵の戦闘機にはインターセプター・ファイターと書いてある。直訳すれば邀撃機だ。

アメリカ陸軍が戦闘機をパーシュート・プレーンと呼んだのは、爆撃機を追撃する機種ということだ。

メッサーシュミットにしてもスピットファイアにしても、あらかたの戦闘機の航続距離が短いのは当然過ぎるほど当然だ。本質が邀撃戦闘機なのである。

司馬遼太郎は昭和10年から20年を、かつて日本の歴史にない時代だと言っている。民衆が揃って他国を侵略しようと狂った歴史はこの国にない。太閤が朝鮮を犯しても、太閤以外は不承不承に追従しただけなのである。

零戦は12試艦上戦闘機、昭和12年の試作だ。まさに時代の気分を代表し、日本の歴史にない異彩を放つ戦闘機になった。

●局地戦闘機●
その-1
戦闘機は歴史によって作られる。零戦も雷電も、日中戦争の戦訓の中から生まれた。大陸での発想だが、それでいて主戦場は太平洋の島々であり、局地はとどのつまり本土上空になった。歴史の皮肉というものだろう。

そもそも大陸は陸軍のテリトリーで、大日本帝国海軍は太平洋を向いていたはずである。その限りで零戦はよそで生まれて実家で大活躍した。なにか小説にありそうな話だ。

アメリカ東洋艦隊を迎え撃つための苦肉の策として陸上攻撃機を作り、それがいつの間にやら爆弾を積んで、大陸の戦争を飛んでいた。いきがかりとは恐ろしい。

防備の薄い陸上攻撃機は次々と撃墜された。次は護衛が必要と、世界に類がない桁外れの戦闘機を作る。艦上攻撃機を護衛していればいいはずではないか。

先見の明ではない。海軍が陸軍の領分に首を突っ込んだ結果であって、国家としての戦略ではない。
はたせるかな基地が爆撃され被害が出た。

今度は急上昇し邀撃する戦闘機も必要だ。理屈を付けて局地戦闘機と呼ぼう。後に乙戦と呼ばれたが、いよいよ何だか訳が分からない。ずるずると行きがかりが作った機種である。

不思議に思うことがある。それなら96艦戦は何だったのだろう。95艦戦も90艦戦も何だったのだろう。

もうひとつ、どうしても不思議に思うことがある。邀撃するのになぜ最初の<発見と占位>に力を注がなかったのだろう。戦果の80%近くはここで決まると分かっていたはずだ。

空中戦闘は<発見・占位・攻撃・機動・離脱>で成り立つ。ところが局地戦闘機の仕様は<機動・攻撃>だけにしか興味が無いように感じる。特に速度と上昇力への執着は強い。戦闘を分解し、原理に則って再構築する基本への執念がない。

その-2
今の時代でも、基本をないがしろにするのがこの国の弊だ。太平洋戦争に敗れ、経済戦争に敗れ、ITもそこでまた新たな原理に基づく戦いに敗れることになるだろう。いつまでも繰り返し、国民は周期的に苦渋を飲むことになる。

雷電に要求された上昇力は6,000mまで5分30秒である。いかに想定戦闘高度まで駈け昇るかが意識の底辺をなしている。

零戦21型の5,000mまでの上昇力が5分55秒。よしんば6,000mまでが7分30秒としても、差は2分である。もし2分を問題にするならまず2分早く発見する方法を検討するのが筋だろう。

爆撃機の侵攻速度を300km/hとすると、2分は10kmである。10km早く発見する方法を研究することと、機体に2分の上昇力を求めるのは同価だ。
インターセプターという概念が最も早く成立したのはイギリスである。しかも機体より早期発見に心血を注いでいる。1940年9月に始まったバトル・オブ・ブリテンでは既にレーダーがあり、組織的に運用できている。

1940年といえば昭和15年である。雷電はやっとモックアップができた時だ。日本の戦記のどこをみても、基地防空の<発見>に工夫したり苦悩した痕跡がない。

それに引き替えシェンノートは、使える戦闘機が2流のカーチスP-40でも、<発見>のシステムを作り上げて目の覚めるような邀撃戦をやった。イギリスにしてもシェンノートにしても、機種の上昇力にオンブして、あとは知らぬと済ましてはいなかった。

雷電をみるとどうしても戦略に当たる誰かが責任放棄し、それをプロペラと翼が懸命に解決しようとしているように見える。


●地上管制邀撃戦●
その-1
空中戦闘を地上で管制するなどとは、日本の軍事官僚たちは思いもつかなかった。攻撃主義で凝り固まり、防御は即敗北主義になりかねない。意識も回らないから邀撃戦闘機でお茶を濁し、それだけで終点だ。

それは空中戦闘の訓練でも分かる。上位戦、同位戦、低位戦、どれをとってみても、<発見>に努力することは無いことが前提になっている。

坂井三郎の空戦記録を読むと、いかに<発見>に努力をしたかが書いてある。さすがエースになった人だと思う。しかしあくまで個人に託された<発見>であり戦う組織がない。

本土防空戦で防御が余儀なくされ、レーダーが使えるようになっても、官僚の頑固な先入観は変えようがない。本土防空は陸軍が担当し、防衛総司令官を頂点として、東部軍、中部軍、西部軍に分かれて防御に当たることになっていた。
東部軍の隷下には第10飛行師団が所属し、飛行第18戦隊、47戦隊、53戦隊、70戦隊、244戦隊が所属する。総機数は約400機であった。

海軍の厚木航空隊302空は臨時に防衛総司令官の指揮に入るよう組織されたが、第10飛行師団とは協力の関係である。

建前は陸軍の指示を受けての防空だが、実状は容易に想像できる。一元的であったはずは無い。戦いに勝つより面子なのだ。

昭和20(1945)年春、情報伝達の経路が変わって、レーダー情報は第10飛行師団に入るようになったが、それまでは東部軍司令部に入っていた。

例がある。昭和19年6月16日、九州小倉の八幡製鉄所が爆撃を受けた。B-29初めての本土爆撃である。

その-2
前日15日、23:31済州島のレーダーから、不明機の第1報が軍司令部(西部)入った。海軍機なのか敵機なのかの判別が付かない。23:46に第2報が入っても、あちこちに電話確認の最中である。

遂に日が変わってしまった。空襲警報を受けた飛行師団(19)は00:27戦闘機発進を命じ、第1陣8機の離陸が完了したのは00:52である。第1報から離陸まで、1時間21分が掛かっている。

伝達経路が改善されても、情報伝達ロスは邀撃戦闘機の上昇力を云々するのと桁違いだ。しかも哀しいことに、東京が焼け野原になっての変更だ。直接飛行師団にレーダー情報が入る体勢でも、機影を捉え識別報告するのに平均3〜5分かかった。

師団に情報が入り、飛行戦隊に指令と情報が伝達されて緊急発進するまでが約15分だ。
合わせて18〜20分と見なければならない。上昇時間の2分に目くじら立てる話ではない。

昭和15(1940)年、ロンドン周辺は8つの防空セクターに分かれ、8つの防空管制所があった。 

レーダー情報は直接管制所に入り、先任管制官が飛行中隊を誘導した。<発見>だけでなく<占位>も地上が援助したのである。イギリスは情報伝達回路に努力を注ぎ、安直に機体の上昇力で解決しようなどとはしなかった。

スピットファイアTAは4,575mまで6分52秒もかかる。ハリケーン2Cは6,100mまで11分30秒も掛かった。零戦21型よりはるか遅い。しかしインターセプターであり祖国の空を守り通した戦闘機だ。


三菱 J2M3 局地戦闘機「雷電」21型

その-1
雷電の構想は昭和13年に出た。即ち順調に着手できれば13試局地戦闘機だったはずである。

このとき海軍は艦上戦闘機の要求も出しているから、12試の零戦が完成もしていないうちに次の要求をしたことになる。中国との戦争がそれほど強く影響したのだろう。

結局試作内示は昭和14年になり、内示はしたものの発注は遅れて15年になった。遙か太平洋の彼方では、宿敵となる高速戦略爆撃機B-29の要求が動き始めていた。

三菱一社指定で、要求された性能は6,000mで325kt(602km/h)以上、6,000mまでの上昇力5分30秒以内、最高速度正規状態で0.7時間の航続力、着陸速度70kt(130km/h)であった。

航続力は空戦25分と巡航1時間に相当した。正規状態の兵装は7.7mm 2挺、20mm 2門である。

設計主務の堀越技師は新進気鋭、妥協の厳しい東大出の秀才だ。速度と上昇力が要求の焦点と受け止め、要求を満足させるために犠牲もいとわない。

司馬遼太郎は東大を配電盤と表現している。西洋文明を受容し、社会に分配する仕掛けを的確に表した言葉だ。
航空機を知り、西洋のレベルに追いつく装置はまさに配電盤そのもので、堀越技師は選ばれた役割を十二分に果たしていた。

追いつく希求は強かったから設計が厳しくても仕方がない。しかしそれは双刃の剣でもある。焦点が外れたら失敗が待っていて、修正が難しく、もろさも隣り合わせなのだ。

粗計算してみたら使えるエンジンは三菱の火星か愛知の熱田しかなかった。熱田はダイムラー・ベンツDB601のコピーで、信頼性に難点がある。結論は火星を選ぶしかない。

根掘り起こしさん葉掘り起こしさんと言われた堀越技師が、火星の軸を延長することにあまり逡巡した様子がない。自社製のエンジンだから疑問を持たなかったのだろう。長い軸で振動問題に懸念を持たないはずはないのだが、それとも魔がさしたのだろうか。

モックアップが15年の12月に審査された。エンジンにあわせて胴体は太く、背の低い風防はファストバックになっていた。徹底的に抵抗を小さくしようとの意志だ。

当時は600km/hを超えると空気圧縮性が問題になっていて、表面摩擦より断面形だとする理論があった。太くてずんぐりした胴体は、理を信じる堀越技師のポリシーなのである。

その-2
陸軍戦闘機鍾馗やフォッケウルフFw190のように、エンジン位置が一番太く、後は極力表面積を小さくしようとする行き方と全く違う。理を信じなければこんな胴体にはしない。

機体が出来上がったのは太平洋戦争開戦の直後、17年2月である。初飛行は3月になった。

戦訓と要求性能を満たすため、水メタノール噴射で1,850馬力にパワーアップした火星23型に換装、あらためて飛行したのは17年10月であった。

すでにガダルカナルでは必死の鍔迫り合いだ。期待は大きい。未完成ながらさっそく雷電11型と名付けられ生産に移った。運命の敵XB-29も、すでにシアトルの空を飛んでいる。

量産は決まったものの振動がひどい。パワーアップのためプロペラを1枚増やしたのだから振動には有利なはずだ。それが先入観としてあったのだろう原因究明に1年も掛かってしまった。おまけにくすぶっていた視界不良が問題になる。

やっと振動が我慢できる程度になり、武装を換えての量産型が雷電21型である。故障対策で七転八倒したが、生産数がいちばん多かった型だ。部隊配備は昭和18(1943)年10月になった。宿敵YB-29も初飛行は6月、最初の部隊第58爆撃航空団も6月に編成されている。力量の差はどうしようもない。
急を告げる戦局に合わせ、18年には540機、19年には1,575機の大量生産が計画されたが、生産は遅々として進まず、雷電を最初に装備した381航空隊は18年10月1日に開隊したものの19年2月20日には装備機を零戦に変えている。故障続出で使いものにならない。

2番目に配置された301空も18年11月に開隊したが、19年7月には3番目の302空に譲渡してしまった。惨々たる有様だ。

アメリカ機動部隊は既にサイパンを襲っていた。事態は急だ。頻発する故障にたまりきれず、さすがの航空本部も雷電の生産縮小を決め、紫電に賭けることにする。ところが紫電もままならない。サイパンは落ち本土防空は必至となった。さあ戦闘機が無い。

雷電は中国の空でツポレフSB-2に手を焼いて企画された。対象は中高度最大速度420km/hの爆撃機である。アメリカとの戦端を開いてB-17の性能に驚き拍車がかかった。

来襲高度は8,000m、想定戦闘高度6,000mより2,000m高い。何とか凌げそうだったが実際に対峙した相手はB-29、10,000mの高空を500km/hで飛ぶ。やんぬるかな、敗者は敵を知ろうとしないのだ。

エンジン
雷電の試作機は三菱火星13型、1,450馬力を搭載した。最大速度325kt、上昇力6,000mまで5分30秒をクリアするにはこの馬力が必要だった。直径が1,340mmもあり選びたくないが背に腹は代えられない。解決は延長軸で機首を絞り、足りない冷却空気はファンで補う。

堀越技師の前面面積に対する緊張は激しい。零戦の時も金星か瑞星かの選択で、馬力は小さいが瑞星を選んでいる。将来よりも現在の仕様に全力を挙げる。金星だった零戦の運命はもっと違ったものになっていたろう。雷電は要らなくなったと思う。金星は1,500馬力クラスだ。

雷電と時を同じくして現れたヘルキャットもコルセアも、搭載されていたR-2800は直径1,341mm、前面を絞ろうなんて考えてもない。直径なんかでくよくよせず、2,000馬力を沸騰させて零戦を圧倒した。

生産型は火星23甲型に換装された。水メタノール噴射で出力を上げ、離陸は1,820馬力、公称1速は1,300mで1,600馬力、公称2速は4,150mで1,510馬力であった。
火星13の公称高度が2,600mと6,000mだから、換装は低空性能を強化したことになってしまう。いかにも将来より現在しか見ていないのが丸出しだ。

火星23甲は空冷星形複列14気筒、容積42.05リッター、回転数2,600rpm。直径は1,340mm、全長1,945mm、乾燥重量860kg。14枚のブレードによる強制冷却ファンでエンジンを冷却した。排気管は高性能を求めて単推力式である。

プロペラは4翅。振動はプロペラ・ブレードの曲げ振動とエンジンの振動が共振して起きた。軸が長いほど共振は避けがたい。おまけにファンが回転すればもう1つの震動源ができる。

オイルクーラーの空気取入口も小さかったが、これも徹底的に前面面積を絞りたかったのだ。量産では冷却に難があって大きくした。理屈どおりにはいかなかったのだ。

武装
武装は7.7mm 2挺と20mm 2門を仕様にしたが、B-17には不十分であると知り、急きょ20mm 4門に変えられている。対象がソ連爆撃機からアメリカ爆撃機に変わった瞬間である。

同じ20mmといってもこれが問題である。1号砲の初速は600m/s、2号砲の初速は750m/s、薬夾の長さも弾道も違うのだ。99式2号砲は砲身も長く威力が大きい。ところが数が無いので雷電は1号砲と混載せざるを得なかった。その妥協が哀しい。
戦闘は連続していても対戦相手が中国からアメリカへ変わった。根本の戦略は転換しなければならない。

それにつれて戦闘機の性能にも仕様にも変化があってしかるべきだろう。孫子は「敵を知る」ことを勝利の条件にしている。

対応は武装の20mm 4門への変化だけで済むはずがない。B-17の戦闘高度が8,000mであることは分かっていたはずである。

主翼

その-1
主翼は後部に補助桁を持つ単桁構造で、弦長35%の位置にあり左右一直線になる。翼根と中央翼は最大厚を後ろにずらした層流翼タイプで、先端は普通の翼型である。ほどよくテーパーした直線翼で、先端は丸められている。

層流翼は当時高速翼型として、世界が研究成果を発表していた。なるべく層流を保ち、翼上面の圧力分布を平均化して抵抗を小さくする翼型である。雷電が目標にしていた600km/hを達成するには当然の採用であった。しかし層流翼は前縁の半径が小さい。それだけ失速速度が大きいということだ。滑空の沈みが大きく着陸が難しくなった。

ただ層流を保つためには表面仕上げの精度が大事だ。P-51ムスタングなどは最後の仕上げに翼表面を研磨したという。
日本の工作技術では理論倒れになったし、磨くことまでしなかったろう。何よりも操縦士や整備士が分かっていたかどうか怪しい。使う人が気を付けないとすぐ層流は崩れる。

主翼の面積は20.05u、翼面荷重は171.3kg/uである。零戦21型の104kg/uより一挙70%も大きく、覚悟して乗らなければ操縦にはとまどったことだろう。「難しい」とか「厭だ」と感じたのは無理がない。

それにつけて思うことがある。昔、航空自衛隊の初級練習機はT-34メンター、翼面荷重は80kg/u。中間練習機はT-6テキサンの107.6kg/u、高等練習機T-33は249.5kg/uだった。それでも各課程は120時間で機種を卒業していく。難度は意識の問題だし、整理された訓練体系が可能にしたのだ。

その-2
証拠はアメリカ陸軍のベテランパイロットである。ムスタングを乗りこなしていたパイロットがP-80シューティングスターに移行した時、あまり着陸事故を起こすため急きょT-33を作った。それが方法さえ飲み込めば、未熟なパイロットでもさほどの苦労にはならないのだ。

洋の東西を問わず、ベテランパイロットは旧態技術に安堵したい。新しい事態に対応したくないのだ。着陸は技術の問題でなく、むしろ心理の問題なのである。戦争末期、未熟な予備士官が雷電で活躍したエピソードは、そのまま帝国海軍の能力を示すエピソードでもある。機種の特性を判断し、能力を引き出す力が無かったのだ。

補助翼(エルロン)は金属フレームに羽布張りで、左右に固定式のタブがある。効きは良く横転性能も良かった。
翼面荷重が大きく着陸速度が速くなるのを押さえるため、ファウラー・フラップが採用された。着陸時には50度下がり、16度下げて空戦にも利用できた。ただし作動は自動式でなく、操縦士がボタンで操作する。

脚もフラップも作動は電気式にしたが、これも信頼性を損なう原因になった。故障が多かったのである。

今でこそ電化製品は世界に冠たるものがあるが、戦前は無線機をはじめ、電気は日本技術のアキレス腱であった。多分その悔恨が戦後に影響しているのだろう。

胴体が太いので翼をつなぐフィレットは大きい。写真を見るとだいぶ塗料が剥げていて、乗り降りには足場が悪そうである。

胴体

その-1
胴体は高速での圧縮性に対処するため、全長の40%位置で最大になるよう設計された。エンジンの直径は大きい、そのうえ更に後ろが太い。やたら豊満なのはそのためである。

視界不良の最大の原因になった。試作段階でも視界不良は指摘されたが用途を考慮して妥協した。しかし部隊配置になって最大の癌になった。

この視界不良問題は日本式リーダーシップの本質を、あますところなく示している。おそらく比較すればP-47サンダーボルトやF4Uコルセアの視界と、それほど違っていなかったろうと思う。

自由なアメリカのパイロットは文句も言わず従い、命令が絶対のはずの帝国海軍操縦士は金切り声を上げる。
命令が成立する条件に何かがあり、それが満たされなければならない。西欧での命令と服従の方程式とはまるで違う。

防火壁(ファイアウォール)のすぐ後、エンジン支持架に挟まれてオイルタンクがある。オイルタンクの後に放熱用のスリットがあり、その後ろに胴体燃料タンクがある。容量は410リッター。ドラム缶2本分でる。

Bf109やスピットファイアとほとんど同じだ。燃料補給孔は胴体左側上面にあった。タンクの後ろは操縦席だが、中で宴会ができるとかトランプができるといわれるほど広かった。

これが操縦士の心理に良くない影響を与えたと思う。頼りない不安な気持ちになる。たぶん視界不良を殊更に言い募ったのは、深層に頼りなさがあったからだと思う。

その-2
キャノピー側面のガラスは1枚張りだが、33型になってキャノピーが大きくなったため、補強のフレームが入った。照準器の後ろに台形平面の70mm防弾ガラスが装着されていたが、視界が更に悪くなると外すことが多かったそうだ。

座席の下に広い空間がある。防弾タンクを置き操縦席を前進させたら視界不良を解決できたのではなかろうかと想像するが、とんでもない座席の下が燃料なんてと叱られそうだ。だけどBf109は座席の下がタンクなのだがな。

座席の後ろには8mmの防弾鋼板があった。日本の鋼板は強度が無かったから、12.7mm弾がまともに当たったら耐えられない。転覆時に操縦士頭部を保護するフレームが付いている。
座席の後ろは3式1号無線機だ。哀しいことに性能が悪く、各機相互ではほとんど意志疎通できない。基地からはかろうじて130kmくらいまで届くが、雑音がひどくて明瞭度が悪かった。

耳が聞こえないのではとても組織的な戦闘にはならない。昭和19年11月17日、東京空襲の第1戦は、上空に待ち伏せながら会敵でなかった。

邀撃しながら会敵できない局地戦闘機とは何なのだろう。もちろん敵味方を識別するIFFなど捜しても無い。

無線機の後ろが酸素ボトル。10,000mの邀撃ではどうしても要る。
尾翼
尾翼は金属骨格に羽布張りである。エレベーター(昇降舵)は左右にトリムタブがあり、ラダー(方向舵)もタブがある。垂直尾翼と胴体尾部のまとめ方は、堀越技師の個性だ。

民族の弱点
雷電は零戦の影であり、この国が拡大解釈に拡大解釈を重ね、本質が見えなくなる国民的な欠陥が生み出した戦闘機だ。

海を向いていた海軍が大陸を向き、防衛主義がいつの間にか侵略的になり、挙げ句が陸上邀撃戦闘機である。拡大解釈が基地防空主務の海軍戦闘機を生み、貧乏な日本が2つの独立した空軍を持つ羽目になった。

誰が拡大解釈をするのか。もちろん官僚である。軍服を着ていたか背広を着ていたかは問題でない。最近の事件を見れば分かることだ。海軍省も陸軍省も大蔵省も通産省も、その他諸々省益を考え、いつの間にか国益を越えてしまう。

省益は他省の省益と衝突するから、省同士はきわめて仲が悪い。雷電は陸軍が作った2式戦鍾馗とほとんど同じコンセプトで、それなりの成功作だが国が滅んでも使おうとはしない。局地戦闘機として他国のHe112を輸入しP-35を輸入するくせに、鍾馗を検討しようとしないのだ。

拡大解釈をどこまで許すか、今でもその命題は残っている。無限拡大解釈を許せば、きっと破滅が待っている。

邀撃戦闘機は速度と上昇力。ところが適当なエンジンがない。大馬力が必要なら直径の大きなエンジンになってしまう。直径の大きなエンジンで、抵抗を小さくするには延長軸で前面面積を絞ろう。
軸を伸ばせば振動を覚悟しなければならない。押さえ込むのか逃がすのか、どっちにしても難しい。雷電は振動で苦しんだ。一年も足踏みをした。さながら無限地獄であるようだ。それでも陸軍には頭を下げようとしない。

振動は取れたことになっているが、たぶん完全に取れたのではあるまい。逼迫した戦況が取れたことにしたのだ。エンジン故障は最後まで続いたし、戦記を読むと戦闘で失われた雷電よりも故障で失われた雷電のほうが多いように見える。

エンジン内に残った小さな振動が、各部に負担を掛けた結果と思う。同じエンジンを搭載した一式陸上攻撃機が、格別エンジン故障で苦しんではいないからだ。

雷電は乗り手が居なかった。これもまた妙な話である。戦闘と命令を事にする軍隊で、手を挙げたボランティアが乗る制式戦闘機とは何だろう。編成の中に2機種があって、好きな方に乗って良い軍隊など、もはや軍隊ではない。

敗残の兵の集まりならばいざ知らず、本土防衛を真面目に考えていたとは思えない。組織的戦闘にならなくて当然だし、負けるのは当たり前と思う。それでも雷電は大好きな戦闘機なのである。

民族の不条理を一身に背負い、若い戦士が雷電を駆る。目指すは遙かな成層圏。