大海原孤影遥かに索敵機-12

写真偵察機とレーダー索敵機

太平洋戦争敗因の根底にはすべて情報活動があったという。だからといって原因を究明せず、いいかげんに目をつぶってしまうのがこの国のいつまでも危うい理由だ。結論が情報の欠落と決まればそこで終点になる。抽象論で終わりそこから先への思考は及ばない。いくら歴史を重ねても、たぶんこの病弊は変わらないのだろう。

戦後50年余が経った。本屋の書棚を眺めてみる。売れている本は戦闘機関係だ。相変わらず華やかに活躍する機種にばかりに目が向いている。爆撃機や攻撃機があっても、地味な情報関係の機器にはほとんど触れられていない。憮然たる思いがする。情報革命など騒ぎはするが朝日を浴びた霜のように消えるに違いない。依存することに慣れて400年、情報を自分の頭で考えたくはないのである。

●太平洋のIT

戦闘の要素は<発見・占位・攻撃・機動・離脱>である。しかも勝敗の80%は発見と占位で占められる。付け加えればその情報と伝達が重要だ。勝敗の原則は孫子の昔から解かっていたはずが、いつか日本海軍は攻撃と機動だけに興味が絞られて、肝心の80%がおろそかになった。そして兵法どおりに敗れた。

ひきかえヨーロッパやアメリカは発見への努力を惜しまなかった。日本にそれだけの人材も技術力も無かったというのが言い訳だが、それよりは気が無かったというのが本音だろう。国家として興味が無ければ人も技術も集積できない。

<発見と占位>への希求はレーダーを登場させ、1940(昭和15)年レーダーはイギリスの空を守り通し、索敵と占位の運用技術は確立している。レーダースコープの中に敵味方を識別し、有利に占位させるためIFF(敵味方識別装置)までも実用された。

敵の情報を伝え、攻撃位置に誘導するため無線機は欠かせない。航空機用短距離無線機はすでに5チャンネルを可能にしていた。敵機を迎え撃つ中隊は指示された周波数に切り替え、混信を避けて有利に闘う。

日本の索敵機は、任務のたびごとに指定の周波数の水晶発信機をもらって離陸したという。これでは接触不良も起きる。6回発信して6回とも受信されなかったこともあったそうだ。「敵艦見ユ」を発信したのだが、着陸してから受信されてないことが分かったという笑えぬ話もある。戦機を失うだろうし勝てるはずはない。大捷といわれたマレー沖海戦でも、通信の齟齬(そご)はきわどいところであった。

ヨーロッパの技術と戦訓はすぐ大西洋を渡ってアメリカに伝達される。それどころかものによってはアメリカのほうが進んでもいた。勝敗を決する80%の部分で太平洋は圧倒的にアメリカ有利の戦争であった。月月火水木金金、たとえどんなに残り20%の分野で超人的な訓練をしても、決して満足する結果は得られない。

厳密に言うと偵察は、所在不明の敵を探す索敵と、所在既知の敵情を知る偵察に分かれる。陸軍も海軍も、この狭義の偵察には写真を使っている。陸軍の100式司令部偵察機と海軍の艦上偵察機彩雲も垂直写真機を載せていた。しかし1台である。較べてアメリカは、P-38の偵察型F-4でも4台を積み、B-24に至っては11台も積んでいた。

何より違うのは、日本機動部隊の主基地トラックやラバウルをB-17やB-24は行動圏内に入れていた。アメリカは写真を判読しいつでも相手の手の内は読めた。対して日本は、アメリカの基地ハワイは手が届かない。前進基地のムーメアとかエスピリトゥ・サントの敵情も分からなかった。

●写真偵察機

第2次世界大戦中のアメリカ陸軍偵察機略号はFである。Photographic reconnaissanceが本当だが、Pは戦闘機に使われているからFotoとし、頭文字のFにした。略号は1930年から軍改編の1947年まで使われている。

戦闘機P-38の機銃を外したF-4と改良型のF-5が戦術偵察機の中核であった。性能と機動性は戦闘機なのである。2台の垂直カメラと左右1台ずつの斜め写真機は、積極的に写真を利用しそこから多くの情報を読み取ろうとする合理である。

2台の垂直カメラは立体視のためだ。同時に撮られた写真をレンズで通してみると物が立体的に見える。地形や建造物の構造が判断でき、相手の防備などがわかる。

斜め写真は物を横から眺めることができ、隠されたものが判読できた。したがって4台のカメラは偵察機最低の装備である。B-24などが11台ものカメラを装備したのは、それぞれ特性のあるカメラを装備したからだ。

写真は進行方向に60%、横方向30%をオーバーラップして撮影し、周差を除去する工夫をしている。モザイクを作る知恵だ。焼付けをするときも撮影時の偏位修正する現像機を用意している。

写真判読はインテリジェンスに高まり、専門の組織と技術を確立し、単に眼の延長とは考えていない。F4のカメラはフェアチャイルド12インチのK17であった。日本陸軍のカメラも海軍のカメラも、基本的には輸入したK8のままであった。小型カメラが世界に並び世界を追い越したのは戦後のことである。

戦術偵察には戦闘機を改造した。戦場を駆け抜けて撮影し、フィルムを無事に持ち帰ることができるのは飛び抜けて足の速い戦闘機でなければならない。もっとも多く使われたのはP-38ライトニングの改造型だった。

P-38は高度7,620mで最大速度666km/hを出し、1,524mでも579km/hを出せた。たいていの敵戦闘機を振り切ることができる。エンジンはアリソンV-1710-89/91、液冷V形12気筒のターボスパーチャージャー付だから、実用上昇限度も13,411mだ。昇ってこられる戦闘機はめったにない。正規の航続距離は1,891km、増槽をつければ最大は3,636kmに及んだ。

都合のいいことにP-38は双発双胴だ。機銃と弾倉は機首に集中し、これを取り除けばカメラルームになる。まったくお誂え向きの構造になっていた。後にP-51ムスタングが写真偵察機に改造されF-6となったが、装備できたのはカメラ2台である。

ただしF-5も巡航速度は491km/hだから、不意を襲われれば抗しようが無い。1944年7月31日08:45、ドイツに占領されているフランスの高高度写真偵察のためコルシカ島を1機のF-5Bが離陸した。そして帰らなかった。操縦していたのはサン・テクジュペリである。おそらく安心していた帰路、巡航中を襲われたのだと信じられている。

長距離写真偵察機はB-24改装のF-7、B-17改装のF-9が担った。4,000km以上に及ぶ航続力、500km/hに近い最大速度、ターボ・スーパーチャジャーの高高度飛行、大きなカメラ・スペースなど、任務にはうってつけである。

B-24の改装試作は1943(昭和18)年、最初の量産型であるD型の爆弾倉に11台のカメラと燃料増槽を搭載した。H型の改装機でもカメラは11台を積んでいた。主としてヨーロッパ戦線で使われたが、本格的な写真偵察機F-7A/BはJ型改装機であり、装着カメラは6台となった。

B-17の改装試作は1942年から行われ、F型の爆弾倉に数台のカメラを装着した。F-9である。本格的なF-9A/BもF型で、カメラ搭載のバリエーションは多かった。

最も本格的な戦略偵察機はB-29改造のF-13である。1944年B-29開発と平行して試作され、爆弾倉にK18、K22カメラを多数装着し増槽も積んでいた。B-29の作戦の前には必ずこのF-13の偵察があり、戦略爆撃の不気味な前触れであった。広島原爆の前には3機のF-13が飛び、後には2機で戦果確認を行っている。

このほかF-8はモスキートで少数がヨーロッパ戦線で使われた。F-10はB-25の偵察機型、これも10機程度の少数だ。

●レーダー索敵

イギリスは1917年、第1次大戦末期にドイツ空軍から首都ロンドンを爆撃されている。戦略爆撃の恐ろしさを骨身にしみて分かっていたのだ。だからヨーロッパが再びきな臭くなり始めたとき、航空機発見は切実なニーズとなった。

日本のように、戦闘機の速度と上昇力に解決を求めるなど、安直な方向に走り出さなかったのはさすが戦争を知り尽くしたアングロサクソンである。2分速い上昇力に努力するよりも、20分早い発見に努力するほうがはるかに意味がある。

1928年レーダー研究を本格化し、ヒットラーが政権を握った1933年には目鼻がついた。1935年には実験を行い、周波数6MHz、波長50mは爆撃機の翼幅25mを考慮したものだ。最大のエコーを狙っている。技術のレベルを冷静に見つめて、いかにもジョンブルらしい。

1937年にレーダー・チェーンの建設が開始された。1940年にはイギリスの東岸から南岸にかけて26基を完成し、折から起こったバトル・オブ・ブリテンで活躍している。

ドーバーの向こうでドイツ空軍が離陸し集結を始めれば探知し、侵攻の規模と方向が分かった。邀撃する戦闘機隊は急速発進し、未来位置に誘導され、上空に待ち伏せ、祖国の空を守り通した。現在も使用されている邀撃管制用語のほとんどは、この時に作られたものである。

レーダー・タワーは約100m、発射させるビーム幅60度、想定するハインケルHe111の翼幅は22.5mだから、とりあえずは6MHzのままでいい。が、後に20〜30MHzに変更され高精度になった。

1939年には200MHzのAIが開発され艦艇と潜水艦発見に威力があったが、まだ周波数が低いためグランドクラッターの影響が大きかった。そこでアメリカに高周波を発生させるマグネトロンの開発と量産依頼した。

マサチューセッツ大学がこれを受け、4,000人の科学者を動員して解決し、レーダーは急速な進歩を遂げることになった。基地用の早期発見だけではなく、小型化が進んで移動用、航空機用、艦艇用などが作られたのである。

航空機用ASVは周波数2GHz、波長1.7m、探知距離は35nmである。PBYカタリナに取り付けられ、大西洋ではUボートを、太平洋では日本海軍の艦艇を捜索した。ミッドウエーで接触を続け、逐一敵情を報告している。

カタリナのなかには全面つや消しの黒に塗装し、闇夜の空を飛んだブラック・バード中隊があった。巡航わずか120ノットの機種だが、日本にはこれに対抗する手段が無かった。低性能機と嘲笑うことはできない。

TBFアベンジャーもSB2Cヘルダイバーも、レーダーを積んで索敵した。両翼の下に八木アンテナを見つけることができるだろう。アベンジャーのものは40°も外を向いていて、いかにも索敵するぞという構えだ。

マリアナ沖海戦のとき、天山艦攻にもレーダーを装備した機体もあった。6月20日、敗走しながらも8機の天山を放ったが、装備を降ろして魚雷に積み替えている。攻撃は夜間になった。そして8機は帰らなかった。敵艦も見つけられず犬死になってしまった。さぞや無念であったろう。命令したのは誰だ。

●ニーズとシーズ

アベンジャーやヘルダイバーに付けられていたのはASB-1、515MHzのレーダーであった。アンテナは八木アンテナ。1926年に東北大学の八木博士が発明した指向性の強いアンテナである。お粗末なことに、日本軍はシンガポールを占領してイギリスのレーダーを捕獲し、初めてそのアンテナが自国の発明と分かった。

陸軍にも海軍にも、敵機の早期発見がニーズとして確立していなかったのである。イギリスが早くからニーズとして捉えていたものを、シーズは持ちながら気が付きもしなかったのは、感性に無かったからだ。

バトル・オブ・ブリテンがもたらした情報に触発され、日本の本格的レーダー開発は始まった。そして日本レーダーの初陣は第2次ソロモン海戦であった。昭和17(1943)年8月24日のことである。わずか半年しか経っていない。十分シーズが育っていなければこんなことがあるはずもなく、ニーズの側の不明ぶりが際立っている。

空母翔鶴に搭載されていた2号1型対空レーダーは1.7m波である。カタログ性能ではアメリカ艦載レーダーとさして遜色はない。このときも145kmで敵影を捉えていた。しかし艦橋はその情報を忘れてしまい、僚艦瑞鶴はその急降下爆撃で飛行甲板が使用不能となってしまった。シーズはありながら切実なニーズになっていないからだ。インフォーメーションをインテリジェンスに高める能力が無いのだ。

「敵艦見ユ」は、日本海海戦の勝敗を決した重要な情報である。日本海海戦を情報の戦いとして熱心に語る本を見ない。だがこの電文が果たした役割は大きい。

大胆な敵前回頭、弾雨を犯しての丁字戦法、機動としての戦いにばかり眼を奪われ、それ以上に重要だった情報については遂に評価されなかったのである。

バルチック艦隊が母港を離れ、大西洋を南下してくる情報は逐一同盟国イギリスからもたらされた。太平洋に入りカムラン湾まで、イギリスの情報無くして敵情の把握などできなかったのである。

カムラン湾を出てからバルチック艦隊の情報は消えた。対馬海峡に来るか、津軽海峡に来るか、情報は国運を左右する重要な要素になった。連合艦隊最大の懊悩だったはずである。対馬海峡に来ると信じ、ウルサンに待ち構えた合理的根拠は無い。司令長官東郷平八郎提督は祈るような気持ちだったろう。

3段に張った索敵線、索敵艦38隻、そしてなにより感動的なのは、当時最新の技術であった無線機を装備していたことである。発見をただ運に任せただけではない、情報収集と伝達に払った並々ならぬ努力が「敵艦見ユ」につながっている。イギリスと同盟を結んでいたのも深慮の結果だ。冷徹に情報ニーズを見据える合理性があった。

少なくとも明治の為政者たちは、情報の価値を知っていた。それからいくらもせずに情報の価値を忘れたのはこの国の歴史に関係がある。緊張が無ければすぐに忘れてしまうのだ。決して血となり肉とはなっていない。官僚が情報を独占する歴史が、400年もあったことを忘れるべきではない。

いまIT革命が叫ばれているが、ニーズというよりシーズの素晴らしさに目がくらんで騒いでいるだけだ。ニーズが無くてシーズだけなら、IT革命もうたかたの夢に終わる。

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