大海原孤影遥かに索敵機-10

メジュロ環礁の彩雲

日本海軍は戦場で扇形索敵網を張り、アメリカ機動部隊を捉えようとした。しかし飛び石作戦で神出鬼没の艦隊を捉えることができない。

もはや策動拠点を偵察しなければ、振り回されるだけで有効な邀撃の体勢が組めない。本気になって拠点を偵察しようとしたのが零式小型水上機であったが、潜水艦を動員しなければならず不便である。そこで出番が艦上偵察機彩雲であった。

日本海軍はソロモンからラバウルへの線が反攻主力と最後まで誤解していた。まさか第2線だとは思ってもいない。彩雲は長躯してメジュロ環礁にアメリカ機動部隊を捉えたが、身構えたのはあさってだった。どうしようもなくマリアナ諸島が壊滅する。

精密図面を読む[3]第2次大戦の攻撃機/偵察機より

●彩雲長駆

ギルバート諸島からトラック諸島まで、日本海軍が敗れるパターンは同じなのである。奇襲を許すのはアメリカ機動部隊を捉えられないからだ。

アメリカは暗号解読とか情報解析のインテリジェンスを積み重ね、日本機動部隊が何時何処に現れるか的確に知っていた。知性で捉え、日本は眼で見て知ろうとする。太平洋戦争はインテリジェンスとインフォメーションの戦いになった。彩雲はインテリジェンスになりきれないインフォメーション最後の切り札である。

日本は反省や分析を組織的に行わず、戦訓を次の作戦に活かそうとはしなかった。アメリカ機動部隊の所在と行動を知的に推論しようとはせず、直接眼で見て戦略情報を得ようとしたのである。多くの島々はすでにアメリカの手に落ちているが、取り残されているいくつかの島がある。密かにこれを伝ってアメリカ機動部隊を捜そう。

そこに登場したのが艦上偵察機彩雲であった。350ノット(648km/h)の高速、10,000mを飛べる高高度性能、1,500カイリ(2,778km)に及ぶ航続距離、試作機であったがすぐこれを使おうとした。絵に描いたような場面と役者の登場である。

マリアナ諸島はサイパン、テニアン、グアムが点在する内南洋最後の前線である。ここが陥落すれば日本は裸で戦うことになる。テニアンに偵察部隊が編成された。機種は2式艦上偵察機彗星と試作彩雲である。

昭和19(1943)年5月27日、まず彗星がアメリカ機動部隊を求めツラギに飛んだ。ツラギには投錨している可能性がある。

偵察過荷重にしてまず孤塁トラック島に飛び、取り残されたブインで燃料を補給し、28日朝ツラギを8,000mで航過した。機動部隊はいない。追いすがる戦闘機を振り切ってラバウルにたどり着き、30日フィンシュハーヘン、31日シーアドラーを偵察してトラックに還った。敵機動部隊の影は無い。

5月30日、今度は彩雲が飛ぶ。目的地はマーシャル群島のメジュロ環礁だ。

彩雲の航続力は1,500カイリ(2,778km)、トラック島からメジュロまでは1,200カイリ(2,200km)である。増槽を装備すれば2,500カイリ(4,630km)が可能だが、試作段階で増槽はまだ無い。したがって戦闘機の追撃を受ければ、逃げるための余分な燃料を食い帰れないし、航法誤差や予備燃料を考えれば直行は無理だ。そこで敵中に放置されているナウルを使うことにした。

前日テニアンを発ってトラック経由、夕刻ナウルに滑り込んだ。孤立していたナウル守備隊は狂喜して彩雲を迎える。翌早朝0700、ナウルを離陸した彩雲は0940高度8,000mでメジュロを航過した。焦点距離50cm、1.6秒の間隔でK8航空用カメラが連続して115コマの撮影をする。写真にはアメリカ機動部隊が写っていた。

1式陸攻ならテニアンからメジュロを攻撃してトラックまでは行ける。ところがなぜか大本営は命令を出さない。促すために6月5日に再び彩雲がメジュロに飛んだ。撮影は上手くいかなかったが艦隊は今にも出動する気配だ。それでも大本営は動かない。そこで6月9日、みたび彩雲はメジュロに飛んだ。が、もはやアメリカ機動部隊はもぬけの殻だった。

大本営軍令部も連合艦隊も、アメリカ機動部隊はパラオからフィリッピンの線に来るものとの信じている。ソロモンに固執した海軍としては、「絶対国防圏」にマリアナが入っていたが北には来ないで南に来ると信じたいのだ。そうであって欲しいという官僚的ご都合主義の固定概念である。迎え撃つ第1機動部隊をボルネオ島北東のタウイタウイ泊に入れたのも、なるべくパラオに近いところとして選んだからだ。

アメリカ機動部隊はマリアナに来た。彩雲の戦略偵察は何もならなかった。

●マリアナ壊滅

マリアナ沖海戦にふれたものは多い。いかにももっともらしいアウトレンジ戦法は目を引く。またとその失敗が日本機動部隊を消滅させたのだから取り上げるのは当然だ。

しかしそれに先立つ航空戦こそ、この国にとって重要な意味があるはずなのだ。その意味するものを考えようとしない。側面を突くはずの航空隊が壊滅していて何の寄与もできかったのだ。そして主隊はそれさえも知らない。面子が優先し客観情勢を見ようとしない。

第1回目のマリアナ航空戦はトラック襲撃のわずか5日後、昭和19(1944)年2月22日にまさかの敵機動部隊発見で始まった。「敵艦見ユ、方位90度、距離460カイリ」。発信したのは2式艦偵彗星であった。

守っていたのは第1航空艦隊の135機である。不幸なことに前日展開したばかりであった。地勢も分からず訓練もできていなかったが、距離は460カイリ(850km)で1式陸攻には手頃である。だが攻撃は薄暮から夜間になり零戦には苦しいし、護衛はつけられない。

裸の陸攻がどんな結果になるか。開戦間もない昭和17年2月、ラバウルで千歳航空隊がアメリカ機動部隊を攻撃し、全滅の憂き目に逢っている。ギルバートでもマーシャルでも似たような結果であった。にもかかわらず援護無しで40機の陸攻を出撃させ、そして当然のごとく全滅した。

翌23日アメリカ機動部隊は艦載機を発進させ、展開したばかりの135機を1日で消滅させた。失ったのは6機のF6Fヘルキャットだけである。もちろん艦の喪失は無い。

第1航空艦隊は再建にかかった。賽の河原で石を積むに似ているが、嘆いている暇は無い。昭和19年5月末から6月初めにかけて、マリアナの航空隊は零戦97機、1式陸攻23機、彗星38機、銀河40機、月光10機、それに天山4機に回復した。帳簿上の機数には遠く及ばないが、それでも200機を超える勢力になった。

そこへ彩雲のアメリカ機動部隊出撃情報である。当然第1航空艦隊は警戒していたはずなのだが、しかし奇襲され、せっかくの212機は地上で灰燼に帰した。今度は彩雲の偵察情報がありながら、2度目の奇襲を受けている。無能ぶりに呆然とする。

昭和19(1944)年6月6日アメリカ機動部隊58TFはメジュロを抜錨した。彩雲が見たとおりである。針路を西にとって密かにマリアナに近づく。鞭声粛々川中島を襲う上杉謙信だ。もし見つかっても凌ぐ自信はあったろうが、なるべくなら見つからぬほうがよい。

6月10日、日本の長距離哨戒圏の外側に達しこれをかわす。夜高速で近距離哨戒圏ぎりぎりまで近づき、早朝索敵機が消えるまで距離を保つ。おそらく400カイリ(740km)ぐらいだろう。判で押したような日本の早朝索敵の裏をかき全速30ノット(55km/h)で西走する。1130頃にはマリアナの東200カイリ(370km)に達し、艦攻TBFに誘導させてF6Fヘルキャット208機を放つ。

ギルバートからトラックまで、アメリカの襲撃は早朝だった。だから午後になり、もう大丈夫だろうと並べてあった212機は銃撃され、またたくまに壊滅した。

たとえ軍令部や連合艦隊に予断があったとしても、それを鵜呑みにした第1航空艦隊の偵察と索敵はまるで連動していない。アメリカ艦隊は出動したのである。彩雲の原隊はマリアナだ。独自に行動すべきところだが、撮ってきた写真を東京大本営に送ってそこでの判断に盲従した。官僚組織がまるだしで、自分を守る主体性が無い。

これは今もまるで変わらない。地方官僚は中央官僚の鼻息ばかりを窺っている。そして何かあればマニュアルに無かったで済ませる。

本番のマリアナ海戦はミッドウエー海戦の裏返しだ。守る島と機動部隊を逆にすれば、まったく同じ構図だ。実効は無かったがミッドウエーの基地航空隊は身を捨てて役割を果たした。ひきかえマリアナの第1航空艦隊は海戦に何の貢献もできていない。もし壊滅していなければ、アメリカ機動部隊の半分を引き付けて、屈辱的な敗北は無かったろう。

●艦上偵察機彩雲

開戦前から中島で構想されていた高速艦上偵察機が、昭和17(1942)年1月に海軍に承認された。連合艦隊は破竹の快進撃をしていたときであり、空母は1隻も失っていない。海軍はお大尽気分であった。構想に惚れ込んで発注したのだろうが、戦略的な意味は乏しい。承認には疑問に思うところがある。

アメリカ海軍も日本海軍も索敵機は艦爆か艦攻を流用してきた。理由は空母の攻撃能力を落とさないためだ。専用の偵察機を持つということは、限られた空母の搭載能力を割くということであり、攻撃力を犠牲にすることである。もし落とさないようにするためには、新たに空母を加えるしかない。

あえて専用の戦略艦上偵察機を持つとしたら、攻撃に先立ち目標を偵察しておくことだが、それは固定目標すなわち地上目標ということになる。彩雲に垂直カメラを装備したのが証拠である。動き回る艦艇を捜す索敵機なら垂直カメラではない。航続距離も不必要に長い。固定目標を考えているとすると、相手機動部隊への考慮はどうしたのだ。

「われに追いつく敵機なし」、彩雲は無類の高速機であったが、戦勢を左右するような働きはできなかった。軍用機はスポーツ機でもなければ競争機でもない。存分に働けなかったのは戦勢の理由ではなく、初めの構想に誤りがあったからだと思う。

要求性能は最大350ノット(648km/h)以上、巡航速度210ノット(390km/h)で航続力1,500カイリ(2,778km)、過荷重で2,500カイリ(4,630km)、上昇力は6,000mまで8分以内、着陸速度は70ノット(130km/h)以下である。元々が中島の構想とはいえ、単発3座機にはすさまじい性能だ。

要求仕様は将来戦争の予測である。この時期にあえて専門艦偵を設計しようとしたのは、戦いの将来予想などしなかったからだろう。相手はいつまでも愚鈍で、機動部隊はいくらたっても無傷でいると考え、占領した島々から偵察機を飛ばすなど思ってもいないように見える。

アメリカの民間は企業の命運を賭けて未来予測をしていたが、日本の民間は親方日の丸で将来予測はまったくの不得手だったのだ。彩雲は企画を買ってもらいたい中島の売り込みが成功した図である。企画には海軍を酔わせる何かがあった。

要求を満足させるために小さくて大出力のエンジンが必要だ。「誉」無くして彩雲は無い。「誉21型」は空冷18気筒容積35.8リッターのエンジンである。直径1,180mmで離昇2,000馬力を出した。零戦の「栄21型」が1,115mmで1,100馬力であったから、奇跡に近いエンジンだ。公称は1,750mで1,860馬力、6,100mで1,620馬力である。シリンダーは130mm×150mm、重量は835kgである。あまりに凝りすぎたエンジンであったため、生産現場や前線では整備に手間取って稼働率が維持できない。公称性能を出すのも難しい。

エンジン2,000馬力でも350ノット(648km/h)は難しかった。層流翼型を採用し厚板で表面仕上げを維持、排気の推力を活かす単排気管で18ノット(33km/h)を稼いだ。

エンジンの次は機体を極力小さくする努力だ。3座ながら零戦並のサイズに削った。こうなると技術的な努力は素晴らしい。翼幅は12.50m、全長は11.12m、主翼面積は25.5uに押さえた。零戦は12.00m、9.06m、22.44u。いかに努力したかがわかる。全長を空母のエレベーターに合わせるため垂直尾翼は前傾させてある。自重は2,875kg、全備重量4,500kg、過荷重では5,274kgであった。離着陸が厳しいから親子式の2段ファウラー・フラップに前縁スラットを付け、着陸速度は75ノット(139km/h)まで下げた。

燃料は長大な航続力を満足させるため翼先端までのインテグラル・タンクにした。片翼5個、両翼で10個のタンクには1,340リッターのガソリンが積める。落下タンクは726リッター、まるで魚雷のようなタンクだった。

軽くするため主翼折り畳み機構を無くし、プロペラを大直径にして試作機は353ノット(654km/h)を出し、戦後のアメリカのテストでは375ノット(695km/h)を記録したという。

武装は防御用の後席7.7mm 1挺だけである。速度が最大の武器というわけだ。それなら陸軍の100式司令部偵察機とどう違うのだろう。

●戦略偵察機

アメリカは戦略偵察機としてB-17とB-24を使った。ともに最大速度は250ノット(463km/h)くらいで決して速くはなかったが、8,000m以上の高高度を飛び打たれ強く、よく目的を達成している。

B-17の偵察型はF-9、B-24の偵察型はF-7である。特にF-7は11台のカメラを積んで遠距離偵察に任じた。F-7Aはカメラ6台に減らしているが、機銃10挺に増やして防護力を増し、爆弾倉に燃料タンクを積んで活躍した。航続距離は2,500カイリ(4,630km)以上に及んでいる。4発機と単発機の違いがあるが、戦略偵察にどう対処するかということなら同じ土俵で考えるべきだ。

戦術偵察機としてはP-38の偵察型F-4、F-5を飛ばせた。戦術偵察とはいえ増槽を積めば1,500カイリ(2,778km)は飛べた。P-38が山本長官を待ち伏せしたときは、海上1,000kmを飛んでいる。航続性能は零戦に比べても遜色が無い。そしてF-4はカメラ4台を積んでいた。垂直用が2台、左右の斜め写真用が2台である。

戦略用にしても戦術用にしても、偵察は写真を基礎にして客観的に判断する姿勢である。2つの写真から情報を立体的に読み取り判断するインテリジェンスが確立していた。しかも斜め写真でパノラマ情報にする。写真はただちに作戦に使われた。のこのこと大本営まで持って帰るようなことはしていない。

彩雲でカメラを積んだが垂直用1台だけである。判読も少数の専門者がいたが、作戦にまで影響を与えることができなかった。なにしろ証拠写真は専門外の大本営でなければ判読が許されない。必然的に空輸が必要になるが、もし途中の天気が悪かったり運搬用の機体が故障したら戦機は逃げていく。

艦上偵察機をどう使うのか、海軍の胆が据わっていなかった。最初空母大鳳に25機の予定だったが6機に減り、最後は搭載しないことになったし、信濃は7機の予定がゼロになっている。戦勢不利でなくとも、空母の攻撃力を考えれば当然の帰結である。偵察して価値があたら叩くでは戦争にならない。空母に戦略偵察機は要らないのだ。

たぶん使い勝手に不足はあるだろうが、島嶼防衛を本気で考えるなら陸軍の100式司令部偵察機で十分足りたはずである。

わき道に逸れるが同じ時期、川西は防空戦闘機紫電を提案している。占領した島嶼の局地防衛に必要な戦闘機として売り込んだのだ。川西は戦闘の未来予測をしていたからだ。大中島とは何という違いだろう。しかし川西は紫電をものにできなかった。そして中島は彩雲をものにしている。予測と技術は違うものだと分かるが、闇雲な技術はただ滑稽なだけである。

本道に戻ろう。海軍は陸軍の97司偵を98陸偵として20機つくった。もし海軍が100式司偵を採用していたら、アメリカ反撃の端緒を掴むことができたかもしれない。たしかに何機かを陸軍から借りて使用していたが、組織的に情報を集める手段にはしなかった。海軍のエゴである。

100式司偵の性能は彩雲ときわめて似ている。時期から見て3型だろうが、最大速度は高度6,000mで630km/h、航続距離も2,600km、増槽をつけて4,000km、ほとんど彩雲に遜色が無い。あるとすれば些細な技術的問題と面子の問題だけであろう。

戦機を逃して傑作機もないだろうが、もし戦略も戦術もインテリジェンスもインフォメーションも問題にしなければ、彩雲は飛行機として隠れも無い傑作機であった。

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