大海原孤影遥かに索敵機-08

1式陸上攻撃機 ヒ連送

ヒ(--・・-)を連送すれば、「我レ敵機ノ邀撃ヲ受ケツツアリ」とのモールス略号になる。索敵機が敵戦闘機の邀撃を受けている緊急送信である。彼我の性能差は圧倒的で防弾は貧弱だから、滅多に逃げられない運命にあるということだ。

索敵機は目視でしか敵を捉えられない。しかし敵はレーダーで索敵機の接近を知り、誘導されて待ち伏せている。運がよければ敵発見を発信できるが、運が悪ければ敵を見もせず邀撃を受ける。残された手段は、ヒ連送しながら逃れようと空しい努力をするだけだ。

索敵機にとって、索敵線が敵の近くを通れば大海原に消える運命である。敵に遠ければ一日を永らえる。

日本海軍制式機大鑑(酣燈社刊)より

●長距離索敵

1930年、ロンドン海軍軍縮会議によって日本海軍は主力艦をアメリカ比60%に制限された。仮想敵国アメリカの艦隊を迎え撃つには、何らかの特別な工夫をしなければならない。なるべく遠くで発見し、補助勢力で漸減させ、その後を主力艦の砲でけりをつけよう。

長大な航続力を持つ陸上攻撃機の発想はそこから生まれ、96式陸上攻撃機の成功で確信をもった。したがって補助勢力としての航空機に対する要求は航続力と攻撃武装だ。思い込みが激しく自負に満ちたエリート軍事官僚には、相手がどんな手段で立ち向かってくるかを考えもしない。唯我独尊、夜郎自大なのだ。

相手が艦載攻撃機を発進させるのが250カイリ(463km)くらいだ。黎明で発進させるとすれば夜は12時間、母艦が20ノット(37km)で走るものとして240カイリ(440km)。これを合わせると490カイリ(907km)。端数を切り上げれば長距離索敵は500カイリ(926km)を目安にすればよい。

500カイリを進出し、側線50カイリ、復路500カイリを巡航170ノット(315km/h)で飛べば6時間10分になる。夜間の目視索敵は無理があるから、着陸が薄暮なら発進は昼前後になる。まずこれが長距離索敵の基本になった。

機種の航続力は設計技術で解決できる。しかし運用するクルーは人間である。いくら帝国軍人とはいえ、6時間余も連続して水平線を捜す緊張は耐えがたい。隔日もしくは中2日おく任務としても緊張には空白ができて、索敵は不完全なものになる。

航空戦隊は3個中隊で編成されていた。各中隊交代で索敵をするものとすれば、中2日が常態になる。マレー沖海戦のときがそうだった。

500カイリ(926km)で50カイリ(93km)の側線となれば、索敵角は6度くらいだ。索敵範囲を180度とすれば毎日15機を飛ばさなくてはならない。中隊9機で索敵ならせいぜい範囲は100度強である。それにしてもものすごい努力が必要だ。間隙を突いて奇襲するのはそれほど難しいことではない。相手索敵の弱点を見つけるのは容易なことだろう。

陸上を基地として目視索敵に頼る限り、相手は索敵機の行動を容易に推定することができる。待ち伏せする気になったら狩りはそれほど難しくなかったろう。

●1式陸上攻撃機

昭和12(1937)年9月、海軍は96式陸上攻撃機の後継機を造ることにした。陸上攻撃機という戦略機種に自信を持ったのである。

要求性能は、高度3,000mで最大215ノット(398km/h)、96陸攻が2,000mで188ノット(348km/h)だったから、作戦高度は1,000m高く、しかも15%の速度向上だ。航続力は過荷重で2,600カイリ以上(4,815km)、96陸攻の偵察装備2,460カイリ(4,555km)より勝れ、あくまで長距離索敵と攻撃が念頭にある。

双発機でこの要求を満たすためには、何かを削らなければならない。要求に防弾が無かったから当然そこが削られた。しかし計画は日中戦争の影響を受けている。96陸攻の被害だ。が、努力は防弾にならない。代わりに防御武装で済まそうとした。96陸攻の7.7mm 3挺から1式陸攻は4挺と、20mmを1門にした。

96陸攻は密封式の機首で、前方からの攻撃に反撃できず、いたずらに犠牲を大きくした。しかも爆撃針路に入ると爆撃手以外は目標が見えず、誤爆の判断さえつかない。何はともあれ透明風防をつけ機銃を積む。次が尾部銃座で20mm機銃が装備されることになった。

撃たれることを前提に考えられない。撃つことしか考えないから編隊護衛改造機G6Mの開発を優先した。編隊末端に多銃装備の改造機を配置して、戦闘機の攻撃に備えようとしたのである。多銃装備護衛機G6Mは20mm 4門、7.7mm 4挺を備え戦闘機に対抗する。でも結局は重くなりすぎ、編隊についていかれず計画は放棄された。

エンジンは三菱が開発を進めていた空冷星形14気筒の火星11型が間に合った。離昇は1,530馬力、公称1,410馬力(2,000m)、1,340馬力(4,000m)のエンジンである。シリンダー150mm×170mm、容積42.1リッター、直径1,340mm、重量780kgの大型エンジンで、出来上がったばかりは故障も多かったが、慣れるにしたがって信頼性の高いエンジンとなった。改良された火星21型は1,850馬力を出し、1式陸攻22型(G4M2)に装備された。プロペラはハミルトン・スタンダード式の金属製定速3翅直径3.40m。

試作機の最大速度は240ノット(444km/h)、最大航続距離は3,000カイリ(5,556km)を出した。操縦性は素直で運動性もいい、昭和15(1940)年4月には制式採用され、太平洋戦争の主力陸上攻撃機、遠距離索敵機として多用された。生産機数はG4M1系列が1,202機、G4M2系列が1,154機、G4M3系列は60機。

1式陸攻の翼幅は24.88m、全長は19.97mである。主翼面積は78.13uで、自重7,000kg、全備重量9,500kgだ。過荷重では12,500kgであった。

大きさはイギリスの双発爆撃機ウエリントンに比較できる。Mk3の翼幅は26.25m、全長は18.55m、主翼面積が78uであった。まさに同じサイズである。全備重量も13,400kgと1式陸攻の過荷重に近く、装備していたエンジンも1,500馬力だったから、航続力を除いて似たような性能になっている。ただし航続距離の短い分だけ爆弾搭載量が多い。生産は戦後まで続けられ、11,461機に及んでいる。島国は同じような爆撃機を造るのかもしれない。

1式陸攻の主翼は2桁の中翼単葉、20%の位置に前桁、後桁を40%の位置にしてその間をインテグラル・タンクとした。長大な航続要求に応えるためである。そのため翼のかなりの部分が防護されていないタンクとなり、被弾するとすぐ発火する原因となった。

独特のセオリーにしたがって補助翼は翼弦の25%と小さく、そのため操舵は軽くて運動性は抜群であった。尾翼も面積が大きく、投弾による重心変化に備え効きも良い。双発機ながら水面すれすれで肉薄できたのは、この操縦性と運動性のしからしむるところだ。

当時の研究成果では、最大太さを先端から40%あたりにした胴体が最も抵抗が小さいとされていた。太い葉巻型の胴体は尾部銃座を備え、長い魚雷を胴体内に格納するのにもってこいとなった。常識に逆らい理論に身をゆだねるのは勇気の要ることだ。1式陸攻の太い葉巻型の胴体は勇気の胴体である。

1式陸攻の攻撃武装は800kg魚雷1、もしくは800kg爆弾1、もちろん500kg爆弾1は可能である。250kg爆弾なら4発、60kg爆弾なら12発が可能であった。防御兵装は7.7mm機銃が前方に1、上部に1、左右ブリスター銃座に各1挺、尾部銃座は20mm砲である。

偵察兵装は搭乗員の目視と8倍の双眼鏡のみである。レーダーを装備できたのは22型からで、制式採用は昭和19年11月のことである。

●絶対国防圏

ミッドウエーで敗れガダルカナルを失った日本は、戦線を縮小整頓する必要があった。しかし陸軍省と海軍省の案は真っ向から対立し、妥協案「絶対国防圏」が決まったのは昭和18(1943)年9月であった。

妥協案は議論が伯仲したギルバート諸島、マーシャル諸島には触れていない。「絶対」と名付けながらこれである。国家存亡にあたっても玉虫色の解決法なのが哀しい。今なおこの国に続く民族性であり、国益より省益なのだ。

それにひきかえ連合軍は、この年の1月すでにカサブランカ会談を持ち、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、フランスのドゴール将軍が集まった。ソロモン群島からフィリッピンを通る南進計画、カロリン諸島、マリアナ諸島を通り日本本土に迫る中央進行計画、ダッチハーバーから千島を通る北進計画の立案が合意されたのである。

続いて5月、チャーチルがアメリカに赴きワシントンで会談して南進計画と中央進行計画の併案を決定した。そして8月にはカナダのケベックで会談がもたれ、中央進行計画が主軸を確認し、@ギルバート諸島およびナウル島 Aマーシャル諸島、ウエーキ島、クサイ島 Bポナペ島 Cトラック島を含む中部カロリン島 Dパラオ島、ヤップ島 Eマリアナ島 の6段階作戦が決まった。さらばラバウルである。計画の対象外になって、南進経路にこだわるマッカーサーさえ黙殺された。

中央経路を主軸にしたのはB-29の存在である。ドイツに対し戦略爆撃を開始し、アメリカは絶対の自信があった。木と紙でできている日本の家屋に対して効果はさらに大きい。

中国重慶に行った日本の無差別絨毯爆撃に対する報復は、当事者中国はもちろんアメリカにも執念になっている。1940年からはじまったB-29の開発にかかわる異常な物語は、この憎悪と報復の大きさが原動力になっている。日本全土を焦土にし、広島長崎に原爆を投じて終わった。憎悪は憎悪を生む。

今なお中国に残る日本の歴史観に対する不信と嫌悪は、軍人に全責任を押し付けて済ませてしまった国民性に向かっている。そのときが来たら、また同じことをされかねないと疑心暗鬼なのだ。

日本海軍はソロモンに全力を注ぎ消耗を重ねている。反攻の主軸は南進経路と思った。航空参謀さえもがドイツへの戦略爆撃やB-29の開発過程がぜんぜん見えていない。広く情報を集め、インテリジェンスにできないのである。ヨーロッパでやっていることを太平洋でもするだろうと考えないのが凄い。そのうえマリアナに固執する陸軍を、対南進経路策に強引に引きずりこんだ。

中央進行計画の最初がギルバート攻略である。最前線はタラワだ。陸軍はそっぽを向いているから守備は海軍陸戦隊でやらざるを得ない。配置された戦闘機は零戦46機、1式陸攻40機、水偵11機、飛行艇5機である。

アメリカ機動部隊は珊瑚海で2隻、ミッドウエーでは3隻の空母を基幹として反撃してきた。搭載機は戦闘機F4Fが100機、急降下爆撃機SBDが100機、水平爆撃機40機の規模である。襲ってくるとすればそれが最低の兵力だ。それなのに配置は半分の戦力にも満たない。これで防御できると信じたのだろうか。

実際は倍の兵力で来た。空母6隻に加え護衛空母5隻、搭載機は900機である。索敵の1式陸攻が「敵艦見ユ」を発信し、攻撃隊が魚雷を抱いて迫ったが、待ち受ける邀撃のF4F群に阻まれて空母にとりつくこともできない。おまけに高角砲はVT信管を持っていた。命中しなくても機体のそばで爆発し破片を撒き散らす。たちまち全滅した。

空の援護を失った陸戦隊7,700は、アメリカ海兵隊18,600を迎え撃って奮戦し玉砕した。伝説に残るタラワの戦いである。海軍用兵者の無能を血で補った戦いだ。

●ヒ連送

1式陸攻の脆弱性を表すワンショット・ライターという評価は、たぶん戦後の日本人が多用したからだろう。因果とは別な、自虐史観と共通する匂いがある。

たしかに被弾に弱かった。だからといって他国の双発爆撃機に比べ、特別に弱かったというのは酷である。

第二次世界大戦の初期、ウエリントン爆撃機はドイツ戦闘機の邀撃を受け50%に及ぶ被害を受けた。直ちにイギリス空軍は夜間爆撃への転換をしている。群がる敵戦闘機群を、爆撃機で突破するのは不可能と判断したからだ。

ドイツ空軍もイギリスほど鮮やかではないが、ハインケルHe111の被害の多さを苦慮して夜間爆撃に転向させた。1式陸攻に似た規模のアメリカ爆撃機はB-25だが、低空襲撃を本業とする使いかたに重点を置いている。中高度では、戦闘機に抗すべきでないことを知っていたからだ。

世界の用兵者は双発爆撃機の昼間攻撃を避けた。起きている事態を直視せず、いたずらに被害を重ねた日本海軍の用兵にこそ問題があるのであって、ワンショット・ライターの汚名を着せるのはフェアーでない。脆弱で、しかもそれしか無いのであれば、いかに使うのか真剣に考えた跡が無ければならない。あるのは兵士の諦観と敢闘精神だとすれば、ワンショット・ライターの汚名は用兵者が着るべきである。

アメリカ機動部隊に接近した索敵1式陸攻は、200kmくらいでレーダーに発見され、誘導された戦闘機の邀撃を受ける。防御は豆鉄砲の7.7mm機銃だ。12.7mmをきらめかせながら300ノット(555km/h)で迫るアメリカ戦闘機を迎え撃つ。

敵艦隊の発見報を打てた索敵機は本望だろうが、発見に至らなかった索敵機は犬死にしかならない。230ノット(425km/h)ではしょせん逃げ切れず、6挺の12.7mm機銃弾を浴び、「我レ敵機ノ邀撃ヲ受ケツツアリ」、ヒ(--・・-)連送しながら太平洋に消えていった。

建前でヒ連送の位置は特定できるはずだ。索敵計画線と時刻から位置は推定できなければならない。もっと積極的には無線方位測定で発信位置は特定できるはずである。

しかし、ヒ連送によってアメリカ機動部隊の位置を推定し、反撃できたという例は聞かない。索敵情報というより決別の電文であるように思える。「ヒ」連送より、「悲」連送なのではないだろうか。ヒ連送を打ちながら消えた1式陸攻はあまりに多い。長距離索敵は意味があったのかと疑りたくなる。

●B-17

B-17は爆撃機であるが、長距離偵察も担当した。1式陸攻と同じような任務を負っていた。違うことといえば雷撃ができなかったことである。しかし長距離偵察機としてみると、1式陸攻と明らかに違う防御の利点が3つあった。

第1は高高度性能である。ターボ・スーパーチャージャーを装備したエンジンは、8,000mでの編隊飛行を可能にし、単機なら10,000mでも作戦行動ができる。実用上昇限度は11,200mだ。しかも7,600mで270ノット(500km/h)が出せた。カタログ性能だから割り引いても、零戦が追いかけるのに容易でなかったことは確かだ。

第2は日本軍の早期警戒能力である。B-17が直上に来てからやっと発見できる能力しかなく、戦闘機が緊急発進してもB-17の高度に達するまでに逃げきることができた。運悪く哨戒中の戦闘機に出くわすことがあっても、浅いダイブで逃げられる可能性が大きい。

勝敗は相対的なものだ。強いものが勝つのでなく、弱いものが負けるのである。もしヨーロッパ戦線でB-17が単機行動したら、決して生きては帰れなかったろう。レーダーに捕まり大口径砲を備えた戦闘機がてぐすね引いて待っている。

第3は防御兵装である。特にヨーロッパの戦訓を取り入れたE型以降は、口径の大きい12.7mm機銃を12挺も装備し、あたかもインデアンに襲われた駅馬車よろしく、ハリネズミのように乱射しながら逃げのびる。さらに燃料タンクは防弾され、被弾してもめったに火を吹くことはない。1式陸攻の7.7mm 4挺に20mm 1門、防弾皆無とは甚だ違っていた。

弾痕1,000以上、機長も副操縦士も重傷を負い、爆撃手は機上戦死、通信士重傷、上部射手負傷、無傷なのは2人だけという状態で帰投したB-17もあった。ともかくタフなのである。敵陣を突破することを十分に考えた兵器なのだ。

中国戦線での96陸攻の被害を、帝国海軍はインテリジェンスにできなかった。

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