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●すり替わった索敵主力
南雲機動部隊の巡洋艦妙高と筑摩は特異な艦であった。主砲を艦橋前部に装備し、後甲板は偵察機専用にあけてある。計画搭載水上機は6機、実際の運用は5機であったが、並みの巡洋艦とは大きく違っていた。長距離索敵用の零式水上偵察機が3機と近距離用の零式観測機が2機である。これが2艦の標準的な編成だ。索敵能力は普通の戦艦や巡洋艦の3倍になる。巡洋艦というより水上機母艦と呼ぶのがふさわしい。
砲戦が始まれば主砲の爆風で搭載する水上機は破壊されてしまうが、利根と筑摩の水上機は砲戦の影響を受けない。安定して使える偵察艦なのだ。したがって南雲艦隊の行くところ何処にでも利根と筑摩の姿があり、事実上の偵察主力艦になっていた。
南雲機動部隊は長距離索敵機を零式水上偵察機に任せ、攻撃機の戦力は落とさずに済ませた。ハワイでもインド洋でも零水が飛び、ミッドウエーで飛んだ7機の索敵機のうち4機は利根と筑摩の零水、そして2機が97艦攻、1機が戦艦榛名の95水偵であった。
南雲機動部隊は日本最強の機動部隊であり世界最強の機動部隊と目されていた。そして建前は97艦攻が主力偵察機であったはずだが、いつの間にか実質は零水にすり替えていた。すり替えはたぶん、何の違和感も無かったのだろうと思う。
建前と実質がこれほど乖離しても無視できるのには要素があった。97艦攻と零式水偵の性能差である。最大速度は97艦攻が204ノット(378km/h)、零水は198ノット(367km/h)である。多少97艦攻が速いが問題になるほどではない。巡航速度にしても140ノット(259km/h)と120ノット(222km/h)、あえて差といえば言えなくもないが、問題にするほどではない。
それよりは航続性能である。97艦攻は過荷重で1,230カイリ(2,278km)、零水は標準で1,796カイリ(3,326km)もある。フロートは履いているものの、偵察機として総合的に見れば零水のほうが優れている。
●零式水上偵察機
昭和12(1937)年に海軍は94式水上偵察機の後継機を計画した。要求性能は最大200ノット(370km/h)、94水偵が140ノット(259km/h)だったから、40%以上の飛躍が要求されたのである。
川西と愛知が指名されたが愛知は納期に間に合わず失格し、川西の機種が採用に決まった。ところが川西機は事故により機体を失い、急きょ愛知機が復活して15年12月17日採用になった。これが零式水上偵察機である。
座席はタンデム3座、前席が操縦士、真ん中が偵察士、後席が電信員兼射手である。階級が同じなら偵察士が機長になった。
エンジンは空冷星形14気筒の金星43型、離昇1,060馬力、公称1,080馬力。97艦攻の空冷星形14気筒・栄1,000馬力にくらべて100mmほど直径は大きく、双フロートを履きながら最大速度では遜色が無かった。要求性能は出すし操縦性は素直だ。取扱性に優れ、意外な展開に海軍は喜んだ。生産された数は1,423機、97艦攻が1,250機だからそれよりも多かった。いかに重宝されたかがわかる。
零水は翼幅14.52m、全長は11.49mである。主翼面積は36.20uで、97艦攻の37.69uとはいくらも違わない。自重2,524kg、全備重量3,650kgだ。これも97艦攻といくらも違わない。最大速度は198ノット(378km/h)、巡航速度は120ノット(222km/h)、最大航続距離は1,796カイリ(3,326km)である。
最大速度が要求に若干足りないのは、実用に入ってからフロートの張り線を強化したからだが、原型機は要求を満たしていた。二つフロートを付けていたのに97艦攻に比べて遜色が無く、艦上偵察機は要らないと思わせても無理は無い。
搭載した金星43型はシリンダー140mm×150mm、容積32.34リッターの空冷14気筒のエンジンである。直径は1,218mm、97艦攻の栄1,115mmより大きかった。重量は560kg。きわめて信頼性の高いエンジンで、プロペラはハミルトン・スタンダードのライセンスを買った金属製定速3翼3.10m。
主翼は2桁の低翼単葉、付け根翼型はNACAの23016、先端は23006であった。内翼はほとんど上反角が無く、外翼に上反角がついて上方に折り畳むことができた。フラップは内翼、補助翼は外翼につけられる。燃料タンクは両翼6個で、容量は1,470リッター。97艦攻より300リッターほど多い。
偵察機ながら攻撃武装があり250kg爆弾1。60kg×2が可能であった。防御兵装は後席に7.7mm機銃が1挺のみで、戦闘機でなくても空中で敵に遭遇すれば想像がつく。ソロモンの攻防では20mm機関砲を積み魚雷艇を攻撃した。
肝心の偵察兵装は搭乗員の目が頼りで、兵装らしいのは8倍の双眼鏡のみである。特殊兵装として手持ちの航空用写真機があったが、艦船索敵には使われていない。レーダーを装備できたのは昭和19年の11月からで、すでに戦局はどうしようもなくなっていた。
●宿命のミッドウエー海戦
ハワイでアメリカ空母を撃ち漏らした。懸念はすぐ形になって現れ、アメリカ機動部隊はマーシャルを襲いラバウルにも忍び寄った。
どうするかで軍司令部と連合艦隊が議論している最中の昭和17(1942)年4月18日、今度は首都東京をドゥリットル爆撃隊が駆け抜けた。700カイリ(1,296km)の沖には哨戒線が張られ、敵発見の報告がなされていたにもかかわらず襲撃を許した。損害は軽微だったが衝撃は大きい。急きょミッドウエー作戦が行われることになった。
作戦目的の第一はアメリカ機動部隊を誘い出し殲滅すること、第二は島を占拠して太平洋に防波堤を築くことである。しかしこれが曖昧になり反転した。土地が目の前にぶら下がれば土地に目を奪われ、執着するのは鎌倉以来の日本人の性である。50年後のバブル景気は土地神話で起きているのだ。
作戦は連合艦隊総力を挙げて行い、決行は17年6月7日に決まった。そして連合艦隊の主隊は旗艦大和以下の戦艦や巡洋艦群で、攻撃正面の機動部隊から300カイリ(555km)も後方を別働していた。まるで腰が引けて緊張感が無い。
機動部隊は南雲艦隊であった。空襲部隊は第1航空戦隊の赤城と加賀、第2航空戦隊の飛龍と蒼龍、支援部隊は第8戦隊の重巡利根と筑摩、第3戦隊に戦艦霧島と榛名の編成である。それに警戒隊として第10戦隊、第10駆逐隊、第17駆逐隊、第4駆逐隊が隋伴し、補給隊は8隻の輸送船で編成されていた。
南雲艦隊はハワイ以来のつわものだが、ミッドウエー作戦計画は東京空襲に驚いて作成した泥縄だったから、5日前に張られる予定の潜水艦哨戒線は3日前になり、すでにアメリカ機動部隊はすり抜けていた。勝利の女神はもう横を向いている。
5月26日、まず上陸する攻略部隊がサイパンから出撃した。27日には第1機動部隊が呉から出撃、28日攻略別働隊がサイパンを出て、29日に大和を旗艦とする本隊が呉を出発した。複雑怪奇でいかにも軍事秀才官僚らしい凝った作戦計画である。実行する手足を忘れた頭だけの作戦だ。
日本海軍の暗号を解読していたアメリカは、6月4日にサイパンを出た攻略船団を発見爆撃している。ミッドウエーの西670カイリ(1,240km)、普通であれば見つかるはずはない。何か変だとも思わず、作戦が読まれていると疑いもしない。ますます女神はそっぽを向く。
旗艦大和はアメリカ機動部隊の兆候を無線で掴んでいたが、不幸にして南雲機動部隊では受信できなかった。無線封鎖中だからと大和は逓伝もしない。これでは本隊、攻撃とは名ばかりの遊山ではないか。
運命の日の早朝、第1機動部隊はミッドウエーの北西210カイリ(389km)に達し、0130(現地時間0430)、ミッドウエー島攻撃隊と艦隊捜索に7機の索敵機を飛ばせた。
この日の日出は0210である。日出40分前だ。もう明るくなっている。なぜもっと早く索敵機を発進させなかったのか、これが戦闘のすべてを語っているだろう。目的を欠落して行動の意義はない。
控えの攻撃隊が対艦兵装で準備していたのは形だけで、作戦主眼のアメリカ機動部隊殲滅は意識の片隅になっている。どうしようもなく目の前の土地に執着し、0400ミッドウエー島攻撃隊から「第2次攻撃ノ必要アリ」の報告が入ると、15分の考慮で艦隊攻撃隊の兵装を陸用に切り替えることにした。
0224 すでにカタリナ飛行艇に接触され、それも承知していた。しかし敵空母までは連想がおよばない。索敵機は発艦して2時間30分経った。索敵線の先端には達したものの側線を飛んでいて折り返し点には達していない。まだ発見報がくるかも知れないのである。索敵面はまだいっぱい空白が残っている。
いないと信じるアメリカ機動部隊は日本機動部隊の所在を知っていて、0400には続々搭載機を発艦させていた。
0405 になるとミッドウエー島からのアメリカ攻撃隊が突撃してきた。上空護衛の戦闘機が奮戦して全滅させたものの戦況は急を告げている。敵弾が降る中、換装を15分で決意したのは、アメリカ機動部隊を居ないことにしたエリート軍事官僚の独善性だ。まるで相手を考えていない。己も敵も知ろうとはしないのだ。
0428、4番索敵線の利根機から電文が入る。「敵ラシキモノ10隻見ユ。ミッドウエーの10度。240カイリ。針路150度。20ノット。0428」。青天の霹靂! 艦隊がいた!
換装中の兵装をまた艦艇用に戻さなくてはならない。しかしミッドウエーからの攻撃をかわすために艦は大きく揺れている。再換装は難しいことになった。
0450 おおわらわになっているところへ、ミッドウエーを攻撃した部隊が帰ってくる。これも収容しなければならない。大混乱である。B-17や26の攻撃をかわし、収容し、やっと攻撃隊の準備ができ発艦の命令が下ったのが0720。そのとき、アメリカ機動部隊の急降下爆撃機が殺到してきた。赤城、加賀、蒼竜、被弾。
●情報誤差
索敵機は、赤城から97艦攻が1機。加賀からも1機。利根と筑摩から零水がそれぞれ2機、榛名から95水偵が1機飛んだ。命令と情報は5艦の艦長から別々に発せられ、一元化するなど思いついてもいない。
海図さえ統一されていなかったので、利根機は機長が自分で白図を描いて出発している。索敵が同じ意志で行われていないのに呆然とする。艦隊が図面を用意せず、個人がばらばらに用意するとは何のことだろう。そのうえ作図に間違いがあり、ミッドウエーの位置を1度南にしてしまった。1度は60カイリ(110km)である。初めから決定的な情報誤差だ。
しかも発見報が入ったとき、内容が変だとは誰も気付いていない。海図に位置を落としてみることをしなかったからだ。通報された位置は第5索敵線、筑摩機の索敵区域であった。
情報はインフォーメーションとインテリジェンスの部分から成り立つ。インフォーメーションは情報の断片で、インテリジェンスは断片を組み立てるノウハウである。日本艦隊には決定的にインテリジェンスの部分が欠落していたのである。
零水は300カイリを進出し、50カイリを直角に飛んでまた300カイリを帰ってくる。索敵角が10度で全航程は650カイリだ。無風対地速度を120ノットとしても、索敵線末端までは2時間30分かかる。発艦が0130なら末端は0400、折り返し点が0425、帰艦は0755になる。実際の利根機の発艦は遅れて0210であった。爆装変更を決心した0415には変針点の手前25分のところである。距離にすれば50カイリ(93km)だ。
すべての航程は波の上、推測航法で飛ぶのだから誤差が出る。しかし索敵線からあまり離れては帰れなくなり、命がけの航法なのだ。だから大きくはずれない。位置報告を聞いて索敵線に落としてみればすぐ間違いに気付く。それを誰もしなかった。
珊瑚海ではタンカーを空母と見間違えた。シンガポールではバージを戦艦と間違えている。目視偵察では誤認はつきものとわかっていたはずである。「敵ラシキモノ」とのあやふやな情報をどう判断したか、ミッドウエーの幕僚は皆無能レベルになっていた。勝つはおろか負けない努力にも欠ける。
●Combat
Information Center
利根4号機の発艦が30分遅れたと責任転嫁した幕僚がいた。高級官僚の常套手段である。たしかに利根機の行動は理解しがたいところがあるが、それより筑摩5号機のほうが戦いの帰趨に大きく影響を与えたはずなのだ。転嫁するなら筑摩5号機にすればいくらか幕僚らしい。なぜならアメリカ機動部隊は筑摩5号機の索敵線の中にあったからである。
発見報を聞いて筑摩5号機が駆けつけた。その通報により初めてアメリカ艦隊の正確な位置がわかったのである。そのときはもはや手遅れであったが、ともかく筑摩5号機は近くにいた。
アメリカはミッドウエー海戦のとき、すでにCIC(Combat
Information Center)をシステムとして確立していた。レーダーを中心として戦闘に影響する情報を一元的に管理するシステムである。指揮官は客観的な情報のもとに的確な決断できた。
0300にアメリカ機動部隊16TFエンタープライズのCICでは、レーダーが日本索敵機の輝点を捉えていた。気付かれたかどうか、艦橋は固唾を飲んで見守っていただろう。しかし輝点は何事も無く東へ消えていった。さぞやほっとしたに違いない。ただちに攻撃隊の発艦準備が始まった。
輝点は筑摩5号機だったろうと思われる。出発が0130である。0300といえば1時間30分後のことだ。発艦した基点から180カイリ(333km)の距離であり、アメリカ艦隊レーダーに影が映っても不思議ではない。もし計画索敵線を飛んでいたのならば、15カイリ(28km)か20カイリ(37km)南をかすめたはずである。視界が良ければ16TFは見えただろう。
0300は日の出から50分後だ。太陽はまだ低い。たぶん見えなかったのだろうと思うし、あるいは見落としたのかもしれない。それとも推定位置よりも遠く、まるで視界に入らなかったのか。いずれにしてもこれが目視索敵の限界だ。
雲が低ければ高くは飛べない。雨が降っていればすぐ横を飛びながら気が付かないこともある。目視索敵は運次第になる。運を基礎にした計画は無いはずである。
アメリカは情報が決断の基礎になることを知っていた。客観的な情報をいつでも確保し、遅滞無く伝達するシステムを考え、結論としてたどり着いたのがCICであった。
情報をあなた任せにし、確かめもせず、うろたえて行動する軍に勝利の女神が微笑むはずがない。日本機動部隊は敵も己も知らず、破れるべくして破れた。 |