大海原孤影遥かに索敵機-05

珊瑚海の97式艦上攻撃機

戦闘は「発見・占位・攻撃・機動・離脱」で成り立つ。中でも「発見と占位」で勝敗の80%は決まってしまうのだが、日本人は「攻撃と機動」に固執する。剣豪と呼ばれる人の奇術のような攻撃や、舞うような機動には無条件なのである。

97式艦上攻撃機は97式艦上偵察機を兼ねるということだったが、偵察はまるで意識の外である。熱を込めて努力したり訓練をした形跡が無い。指揮官にも乗組員にもしたくない余分なことであったろう。

意識しない限り「発見と占位」はなおざりになる。情報化社会にもっとも不向きな民族性を持っていることを忘れてはならない。

日本海軍制式機大鑑(酣燈社刊)より

●代用艦上偵察機

大正13(1924)年採用の13式艦上攻撃機は傑作機であった。信頼性が高く、それまで使用していた10式艦上偵察機に速度も航続力も遜色がない。お役御免になって10式艦偵は機上作業練習や中間練習に使われた。末は民間に払い下げられ連絡、遊覧などに使われている。以後海軍は、艦上偵察機という機種を企画する気が失せたようである。

13艦攻の後継機は89艦攻だが、エンジン・トラブル多発のため13艦攻が使われ続けた。主力攻撃機が不具合なら艦偵など後回しである。いよいよ兼務の素地が出来上がった。

この時期まだ急降下爆撃機の思想はないから、こうして艦偵即艦攻の図式は日本海軍の固定概念になったのである。急降下爆撃が採用されても、導入したものを真似るだけで精一杯だ。形はあっても芯がない。

二千年来いつでもそうなのだが、文明を輸入するとき形を真似ても心は別だ。本義は後から都合いいように考えるのが、この国の習性なのである。

急降下爆撃機はアメリカが元祖だ。陸軍はおざなりで海軍が熱心だった。いきさつや経過をみれば艦砲なのであるが、日本海軍は元祖に習わずドイツを手本とした。ドイツは陸軍国、急降下爆撃機を野砲や山砲の延長と理解していた。そして日本は砲の延長として捉えていたかどうかもあやしい。

すでに艦偵=艦攻の図式が出来上がって10年の月日が経っていた。急降下爆撃機という新機種導入にあたって、偵察機を改めて考え直すほどの余裕もなかった。それに艦爆をどう位置付けるかわからなかったから、代理を変える発想もない。

昭和10(1935)年、海軍は久々に艦上偵察機の開発を思い立った。最大速度200ノット(370km/h)以上、航続距離1,200カイリ(2,222km)以上、可変ピッチ・プロペラ、フラップを仕様に加えている。世界を覆う航空機革新の波に乗って飛躍できると信じたのであろう。

出来上がった機体は全幅13.95m、全長10.00m、主翼面積は30.00u。固定脚ながら最大速度は209ノット(387km/h)、航続距離は1,230カイリ(2,278km)だった。主翼折畳み式機構を備え、セミインテグラル・タンク、可変ピッチ・プロペラ、フラップも付いて、速度こそ96艦戦には及ばなかったものの要求の全部をクリアしている。

昭和11年10月にはテストを開始し翌12年9月に採用を決定したが、同じ年の11月に採用した97式艦上攻撃機とはまた似たような性能になってしまった。10式艦偵と13式艦攻の二の舞である。艦偵をわざわざ量産する意味がない。

かくして太平洋戦争の日本海軍機動部隊・艦上偵察機は、97式艦上攻撃機が代用されることとなった。すなわち97艦攻は即97艦偵なのである。

●珊瑚海海戦

ハワイ真珠湾攻撃からミッドウエー海戦まで、97艦攻が艦偵として組織的に使われたことがない。すなわち索敵の主役が登場せず勝てたのである。索敵は水上偵察機で間に合わせ、本命は手抜きしても奇襲の幸運と手薄を突いて勝てたのだ。

そして例外的なのがこの珊瑚海海戦であった。初めて索敵には主役が登場したのだが、情報収集をおろそかにしたら何が起きるかを暗示した。失敗は97艦攻の索敵不慣れから起こっている。

だが次のミッドウエーでは、強化するどころかまた97艦攻を索敵の主役から降ろし、当然日本海軍は奈落の底に転げ落ちた。

アメリカはすでに日本の交わす電文から、作戦の場所を400カイリ(740km)程度の範囲で特定できるようになっていた。その中でめぼしい戦略地点を探すことはできる。日本機動部隊が珊瑚海で作戦すると確信した。

第17TF(Task Force)が急派され、まず突出した先鋒のツラギを撃った。1942(昭和17)年5月4日のことである。ツラギはソロモン群島もかなり東だ。ガダルカナルとは狭い海峡で隔てられる目と鼻の先、アメリカとオーストラリアの連絡路を脅かすに十分な位置にある。

日本機動部隊は、まだソロモン群島の北を群島に沿って東に航行していたが、攻撃によりアメリカ機動部隊が珊瑚海にいることを知った。群島の東端を回ったのは5月5日。普通ならさっそく索敵機を飛ばすところだが、なぜか5日も6日も索敵をしていない。

行動を秘匿するためと説明されているが、ツラギから南へは97大艇の哨戒網が敷かれている。ラバウルからは陸攻が飛んでいるし、デボイネ、ロッセル島からは水偵が索敵していた。あえて艦偵を飛ばせることもない、そう思ったのであろう。索敵網から漏れるとは考えてもみなかった。油断である。いかにも秀才軍事官僚の幕僚らしい発想だ。

5月6日機動部隊はソロモン南の沖を西に向かって航走している。回り道をし、足音を忍ばせ、敵に近づく手のこんだ行動だ。これまた秀才の作戦らしい。

作戦の主体はポートモレスビーの上陸である。船団は機動部隊と別にラバウルを南に直行した。敵が来たら機動部隊は敵の背後から襲うことになるだろう。

ところが6日08:50、ツラギの97大艇が発見報を送ってきた。背後どころか位置は遥か360カイリ(667km)も離れた南である。直ちに針路を南にしたが、遠すぎて索敵機を飛ばせる距離ではない。

97大艇は12:20接触を失った。17TFは97大艇に気付いていたわけではないが、南下したり東走したり、また西走するなど複雑な動きをしていた。日本には押されっぱなしだったから、よほど用心していたのだろう。ところどころにスコールなどがあったことも影響して97大艇も見失ったのだ。

そしてその頃、モレスビー上陸の船団はB-17によって発見されていた。直衛には空母翔鳳がついている。アメリカ側の「敵艦見ユ」である。

7日04:00、180度から270度にわたり6本の索敵線がはられて97艦攻が発進した。そして05:22、「敵艦見ユ」の電報が入る。「182度、163カイリ、空母1、巡洋艦1、駆逐艦3」。

6:00 攻撃隊78機が発進したが、06:10 第2報が入り、空母と見たのはタンカーの誤りであった。巡洋艦でなく駆逐艦である。本業を手抜きしていた不慣れが露呈した。

97艦攻の乗組員は爆撃や雷撃が任務と思っている。訓練もそれに終始した。97艦攻が97艦偵の代理であったように、乗組員にとっても索敵は仕方なくやる任務だ。技を競うというようなものでもない。誤報はある必然を伴っていた。

追いかけるように06:20、上陸護衛の巡洋艦古鷹搭載の水偵から電報が入ってきた。「敵艦見ユ、デボイネ152度、150カイリ」。機動部隊から280度の方向250カイリ(463km)である。しかし攻撃隊は南に飛んでいた。なぜか帰投命令が出されたのが09:50、戦機はまるで失われている。2つの情報評価をめぐり、機動部隊秀才首脳の混乱が手にとるようだ。

本命TF17は280度の線にいた。機動部隊が張った索敵網の外側である。しかし索敵機が足りなかったからではない。隋伴していた巡洋艦妙高の水偵も羽黒の水偵も、待機をかけられたまま飛んではいないのだ。あるいはロッセル島の索敵網と安心していたのかもしれないが、念のため主索敵線の外側に水偵を飛ばせる努力を抜いた。水偵を飛ばせていたら、17TFは文字通り背後を突かれていただろう。

もし97艦攻が誤報を打たなかったら、海戦は古鷹報で旋廻したに違いない。

古鷹の水偵が発見報を打電した直前、17TFの索敵機が「敵艦見ユ」を打電していた。日本上陸船団本隊を発見したのだ。07:26 17TFは93機の攻撃隊を飛ばせ、09:07 攻撃を開始し、船団は上陸作戦を断念した。09:35 翔鳳は海中に没し日本海軍は空母を喪失した。

8日の海戦は周知の通りの結果になった。アメリカ側からすれば、7日の戦闘で目的は達している。8日は空母対空母の戦いだが、追いすがる日本機動部隊とのやむない撤収戦だ。

ここでやっと97艦攻は敵を発見し役目を果たした。かろうじて主力偵察機の面目を保つことができたが、主戦に間に合わなかった偵察機であったことを消すことはできない。

●97式3号艦上攻撃機

昭和10(1935)年に海軍は艦偵と同時に艦攻の試作も、中島、三菱の2社指定で発注した。要求は乗員3で、巡航速度180ノット(333km/h)以上、航続距離は500kg爆弾2発を携行し巡航135ノット(250km/h)で7時間、主翼折畳み、可変ピッチ・プロペラ、フラップ付きというものであった。

中島は艦偵の設計を先行させ、成果を艦攻の設計に取り入れる方針を決めた。可変ピッチ・プロペラも主翼折畳み機構も同じ機構を踏襲している。さらに脚は進歩させて引込み式とした。

昭和11年4月には実大模型審査、5月には荷重試験が行われ、12年1月18日には1号機が初飛行している。エンジンは空冷星形9気筒、離昇830馬力の「光3型」であった。

三菱機は固定脚ながら中島機と優劣を決め難く、海軍は12年11月16日中島機を1号艦攻、三菱機を2号艦攻として採用した。

中島はかねて開発中だった空冷星形14気筒エンジン「栄」1,000馬力の見通しがつくや「光」と換装し、海軍もこれを採用して3号艦攻とした。これで2号艦攻との優劣はつき、97艦攻は3号艦攻に1本化されることになった。

97式3号艦攻は翼幅15.52m、折り畳んで7.30m、全長は10.30mである。主翼面積は37.69u、自重2,200kg、全備重量3,800kg、過荷重で4,100kg。最大速度204ノット(378km/h)、巡航速度140ノット(259km/h)、正規航続距離は692カイリ(1,282km)である。偵察過荷重ならば1,231カイリ(2,280km)。艦偵との性能差は僅かであり、あえて作る意味はない。

搭載したエンジン「栄」はキ43隼と零戦に装備され、日本の中核になったエンジンである。シリンダーは130mm×150mm、容積27.9リッターの空冷14気筒。直径は1,115mm、重量530kg。きわめて信頼性の高いエンジンであった。プロペラはハミルトン・スタンダード金属製可変3翼。

主翼は単桁構造が採用され、外翼は上方に折り畳む。原型は油圧式であったが、不具合があり人力折畳みに変更された。燃料タンクはセミ・インテグラル方式で、容量は1,150リッター。フラップはファウラー式も試作されたが量産は単純なスロッテド・フラップに収まった。複雑な機構がこなせなかったのである。胴体は全金属製セミモノコック。

主攻撃武装は800kg魚雷、800kgもしくは500kg爆弾各1。250kg×2発、60kg×6発も可能で陸上攻撃にも多用された。ミッドウエー島攻撃には800kgの陸用爆弾が使われた。

防御兵装は後席に7.7mmが1挺だけであり、戦闘機のみならず空中で敵に遭遇すれば、ほとんど逃げ切れなかった。

●ダグラスSBDドーントレス

アメリカの艦偵はSBD、Sはスカウトの略である。スカウトといえば西部劇を思い出す。

騎兵隊に先行し単騎で敵地を斥候する。インデアンに追われ、荒野を疾走する姿はアメリカの原型だろう。進取、不羈独立の精神にあふれ、SがB(ボマー)より先にあるのは歴史からくる気風に違いない。

海軍最初の急降下爆撃機(ヘルダイバー)はカーチスF8C複座戦闘機である。戦う斥候のまさにスカウトだ。民族の記憶の中から生まれている。それだけ確かということだ。

急降下爆撃機が成り立ったとき、搭載する爆弾は効果から1,000ポンド(454kg)が前提になった。はじめから要求仕様が454kgなのだ。日本の急降下爆撃機の爆弾が250kgである。ほぼ倍の威力があり、爆弾で敵主力艦を倒す意志がある。

急降下爆撃の弾着速度は高高度から投下された爆弾に及ばない。同じ大きさなら効果は小さい。しかし欠点もあるが命中精度は高いのだ。それならば大きい爆弾を使えばいいじゃないか、いかにもアメリカの発想である。

1930年当時、454kgを積んでそれ相当の性能を出すのは容易ではなかった。機体は大型になり肥大化したが、スカウト・ボマー回帰は民族の血である。偵察時は半分の500ポンド爆弾を積み、爆撃機としては1,000ポンドという仕様ができた。そして最初の制式機がSDBドーントレスであった。

珊瑚海で戦ったSBD-3は12.7mm 2挺の前方固定機銃を持っていた。キ43隼3型戦闘機と同じ攻撃力があり、隼1型2型よりは優れていた。爆弾を捨てれば後方にも7.7mm 2挺を持った複座戦闘機なのだ。格闘戦では単座戦闘機に及ばないが、むざむざ餌食にはならない。相手が雷撃機なら十分阻止できる。

アメリカ正規空母の編成は、スカウト中隊VSと爆撃機中隊VBで機数は同じ18機だった。珊瑚海海戦では襲い来る日本攻撃隊を戦闘機に混じり邀撃し、スカウトの面目若如たるものがある。99艦爆や97艦攻を多数撃墜し、次の日の戦いでも索敵には18機を繰り出している。

スカウトの搭載爆弾は半量の500ポンド(225kg)だが、日本の250kg爆弾とそう見劣りがするものではない。それに見つけた時すかさず投弾できる。南太平洋海戦では空母瑞鳳の飛行甲板を、スカウトが行きがけの駄賃で発着不能にした。

珊瑚海で97代理艦偵は顔色が冴えない。くらべてSBDは奮迅の働きをした。よほど自信を持ったのであろう。ミッドウエーではさらに大殊勲を立てた。

●98式陸上偵察機

戦場を駆け抜けるのは容易ではない。帝国陸軍はよく分かっていた。生き抜く最良の手段は速度である。情報を懐に敵より優れた足で逃げ切ればいい。

97艦攻が生まれた年、制式になったのが97式司令部偵察機である。最大速度は500km/h、97艦攻より100km/h以上、96艦戦より50km/h以上も速かった。よほどの戦闘機でなければ捕捉されることはない。

海軍も目に付け1年遅れで採用した。98式陸上偵察機である。しかし生産された数は50機に過ぎない。期待した活動の範囲と度合いがわかる。将来島嶼を占領し、その防衛のため索敵に使おうなどと考えてもみなかったのだろう。100式司偵にいたっては借用するだけで採用もしなかった。

海軍が俊足艦上偵察機を持たなければと反省したのは後のことだ。そして彩雲が生まれたときには乗せるべき空母がなくなっていた。そもそも空母に専用の艦上偵察機を持とうというのが常軌を逸している。戦争に負けるのが当然だ。

海軍は進取とか開明と言われながら、実は頑迷固陋な独尊の気風に満ちていたのである。自分が夜郎自大とは思ってもみない。後にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたら舞い上がった素地そのままなのだ。

97艦攻は97艦偵の代理でありながらついに主要海戦で敵主力を発見し、「敵艦見ユ」を発信することがなかった。鈍足とか俊足を言う以前の問題として、この国の情報に持つ鈍さを代表するのが97艦攻なのである。

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