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●緒戦の功労者
太平洋戦争の緒戦、勝利の空を飛んだ複座水上偵察機は95式水偵であった。マレー沖海戦の前日、惜しくも日没になってとり逃したが、イギリス東洋艦隊をいち早く発見し張り付いた索敵機の群れの中にも95水偵はいた。
そしてインド洋ではイギリス空母ハーミスを発見、「敵艦見ユ」を発信したのも戦艦榛名の95水偵であった。
マレー沖海戦で名をなしたのは96式陸上攻撃機や1式陸上攻撃機だ。インド洋では99式艦上爆撃機が80%以上の命中率で名を挙げたが、敵発見を打電した偵察機には手を叩く者さえない。今でも功名を称える者も無く、知ることの価値はいつの時代でもこの国の関心を呼ばないのである。
太平洋戦争緒戦は零式観測機への機種転換の時期であり、開戦時もっとも多かった近距離水上偵察機は紛れもなく95水偵であった。たぶん零式観測機は50機にも満たず、ほとんどの艦に搭載されるに至ってない。戦場を駆けたのは95水偵なのである。
まだ主役は95水偵だった。
零式観測機の生産数は昭和16(1941)年後期に25機、17年軌道に乗って217機、水上機が昼間行動できなくなった18年が431機である。日本が破竹の勢いで太平洋を膨張しているときの尖兵は紛れもなく95水偵なのだ。だから95水偵は勝利の水偵であり、零観は苦戦と敗戦の水上機なのである。しかも艦隊同士、天下分け目の砲戦は無かったから、観測機の活躍は無く、戦闘機まがいの活躍や小さな爆弾を投じる脇の活躍がもて囃されている。ひかれ者の小唄の感が深い。世に「芸は身を滅ぼす」というが、複座水偵は余技にしか活躍の場所が無かった。
少ない例ではあるが、緒戦では複座水偵にも偵察機らしい働きができた。しかし半年もすると、主戦場に登場できる能力は無い。
零式観測機は95式水上偵察機の正当な後継者である。制式区分で零観はF1Mであり、95水偵はE8Nであるが、あえて観測機の名称を付け、新しい制式区分を作った意図は中国戦線での活躍から発想したに違いない。
●日中戦争
昭和12(1937)年7月7日、蘆溝橋の銃声で日中戦争がはじまった。上海周辺上空で中国空軍と日本海軍の本格的な空中戦が行われる。激しい期間は8月中旬からの3週間だったが、予想を超えきわめて印象は強烈だった。
中国空軍は約140機、カーチス・ホークIII、ボーイング281(P-26)、ブレダ27、カーチス・シュライク(A-12)、ノースロップ2E(A-17)、マーチン139(B-18)、ハインケル111Aなどであった。主力戦闘機ホークIIIはアメリカ海軍に正式採用され、短期間ではあるがBF2Cとして空母サラトガやレンジャーに搭載されている。すぐグラマンのF3Fに替わられたが、必ずしも性能劣悪というわけではなかった。Bの名のとおり爆撃用に250kg爆弾が搭載でき、日中戦争の初期は盛んに出動している。対する日本海軍も約140機で勢力は互角だ。
緒戦89艦攻、94艦爆、96艦攻、96式陸攻などを疑念もなく繰り出した。この頃は戦闘機無用論が根強く、特に高速爆撃機96陸攻には護衛戦闘機もつけていない。中国邀撃戦闘機を十分かわせるつもりだったのだ。
ところが撃墜されるはずのない新鋭爆撃機が次々に撃墜され、わずか2日の攻撃で半数になる事態となった。渡洋爆撃が喧伝され耳目は逸らされたが、海軍が受けた衝撃の大きさは想像に余りある。急きょ新鋭の96艦戦が投入され、戦闘機無用論は一挙に色褪せた。
悲惨だったのは89艦攻である。鈍足で防御力も弱く、1編隊全機が撃墜される例もあった。94艦爆も96艦攻もいたずらに中国戦闘機の餌食になった。
中国空軍は防戦だけでなく積極的にも攻めた。揚子江にいる上陸船団を攻撃し、その護衛艦隊にも襲いかかる。主力は軽爆撃機のシュライクやノースロップ2Eである。艦隊は搭載する95水偵をあげて邀撃した。
95水偵は襲撃してくる爆撃機を迎え撃ち、果敢に空中戦を挑み、撃墜の戦果まで挙げた。そればかりでなく、敵主力戦闘機ホークIIIとさえ渡り合って互角の勝負をした。撃墜した例まであったのである。
戦闘機と水偵、空中戦でのハンディはあったが、とりあえずの役には立った。中国側さえ戦闘機の評価を与えたくらいだから、日本海軍がその気になっても不思議ではない。本来の偵察機よりも、戦闘機的な性格の次期水上機を発想することになった。
爆撃機には護衛戦闘機を付けなければいけない、艦隊上空は水偵で守れる。海軍が出した日中戦争の決算であった。
●95式水上偵察機
95水偵は90式2号艦載用複座水上偵察機の代替として設計された。試作発注は昭和8(1933)年3月である。
90式水偵には1号から3号までの3機種があったが、1号には明確なポリシーがない。カタパルトから発射でき、運用ができるそれだけの偵察機だった。2号はアメリカのO2UコルセアIをコピーしたもので、明らかに近距離用弾着観測機としての意図をもち成功した。3号は3座の長距離用索敵偵察機である。これで水偵の道筋は確定し、観測機系列は95水偵から零観へと進化、索敵型は94水偵、零式水偵へと繋がっている。
95水偵は複葉単フロート型で昭和9年3月に完成している。いくら昭和の初期といっても1年である。設計者は90水偵と同じ三竹技師で改良の構想が固まっていたからだろう。競争他2機種に勝ったのは操縦性と安定性が優れていたためで、コルセアの改良で納得がいく。性能が伯仲していたとはいえ90水偵に比べて36ktも速度は向上し、上昇力も良い。
エンジンは指定された寿2型改1、90水偵に搭載されていたエンジンと同じである。にもかかわらず性能が飛躍したのは設計が成熟したからだ。翼面積は3.1u小さくすることができている。
寿2型はブリストル・ジュピターを原型に、中島飛行機が改良した空冷9気筒星形エンジンである。離昇は580馬力、公称は460馬力とやや小さいものの、当時日本が持てた信頼性の高いエンジンであった。96艦戦にも搭載されている。
寿1型は昭和7(1932)年3月から生産され、離昇570馬力であった。2型は過給器付き公称高度3,000mで460馬力のエンジンだ。生産は1型の直後、7月から行われている。容積28.7リッター、重量358kg、直径は1,280mmあった。96艦戦に搭載されたのは触れたが90艦戦のエンジンでもあった。エンジンは簡単に開発できない、息が長いのである。後に寿2型改1は改良され、改2となり離昇が630馬力に増えている。
それにしても対戦したホークIIIは、搭載していたのがライト・サイクロンR-1820である。公称は3,500mで745馬力であった。460馬力で745馬力と戦わなければならない。互角と言っても辛かったろう。昭和14(1934)年中島はサイクロンのライセンスを買ったのだが、日本のエンジンはまだ発展途上なのである。
カウリングにフラップは無く、プロペラは2枚の金属製固定ピッチで直径が2.70mである。操縦士はシリンダーの間から水面が見えたろう。着水に便利だったはずである。支柱や張り線などは90水偵よりレファインされたものの、基本的な配置は変わっていない。
それにしても中国戦闘に敗れることがなかったのは、無類に操縦性が良く、たやすくは格闘に負けなかったからだ。
主翼は上翼に浅い後退角をもった複葉で、翼面荷重は71.7kg/u、ホークIIIの82.1kg/uより10%以上も軽い。馬力荷重は大きいから縦の面では劣るが、旋回戦闘ではひけを取らなかった。零観への進化はたぶん、中国での経験に自信を持ったからだろう。
下翼は根元に大きな下反角を付け、胴体との干渉に配慮している。直線翼で操縦席と偵察席の中間にあり、どの席もかなりの視界が得られる。観測にはそれほどの邪魔にはならなかったろう。
最大速度は162ktだが、艦隊を襲った中国空軍のシュライクの速度は158kt、ノースロップ2Eも159ktである。爆装して戦闘巡航なら130ktがやっとだったと思う。編隊飛行ならもっと遅かったかもしれない。爆撃も低空の水平か緩降下だから、急降下すれば容易に攻撃できる。撃墜の実績を挙げ、ともかく艦隊上空を守ることができた。
武装は7.7mmの前方固定銃が1挺、後席に7.7mm旋回銃が1挺である。貧弱ながら格闘戦になるし邀撃ができた。爆弾も30kgを2個搭載できたから、陸戦隊の近接支援の役にも立って、小規模の戦線では大活躍だ。
●思春期の体験
1930年代は航空の急成長期であった。全金属製セミモノッコク構造、低翼単葉、引込脚、可変ピッチ恒速プロペラ、フラップが定着した時期なのである。ことに1935年を挟んで急速に転換している。
そんな時期、日本は千年も超大国と思ってきた中国と戦争をした。空の思春期の異常な体験である。航空戦略が大きな影響を受けたのは当然であろう。昭和12年以降に企画された機種は、否応なく日中戦争の影響を受けている。
情報はインフォメーションとインテリジェンスで成り立つ。ところがインテリジェンスに対応する日本語が無い。すなわち概念が無いのである。個の情報を理論で体系化し、時系列で捉える習性が無いのだ。時系列は必然的に未来予測に繋がっていく。したがって習性が無いということは、ほとんど未来予測ができないということだ。
日本人はリアリティに欠けるというが、可視の過去と現在だけを信じる超現実主義者なのである。今見える、聞こえるものしか信じることができない。とくに外国の予測には弱い。日中戦争で得た情報を先端技術としたが、目にみえる機種は2年とか3年前の過去である。昨日と今日を体系化し、理論的に明日を予測する手段にはできない。
たとえばノースロップ2Eである。この機種はガンマの流れにあり金属製単葉低翼機だ。今は固定脚で速度も遅いが、日ならずしてフラップを付け引込脚になるだろう。250ktは出すに違いない。そう考えつくには造作なかったろうと思う。たしかに今日中国で打ち破ることができたが、明日は太平洋にSBDドーントレスとして姿を現し、完膚なきまで日本海軍を沈めるかもしれない。
日中戦争で対戦した相手軍用機はいずれも列強先進国の機種だ。最新鋭とは言えないにしても、レベルはそう思っても無理ない機種群である。戦闘機ホークIIIはアメリカ海軍の制式艦上戦闘機だし、グラマンF2FやF3Fに比べて性能では遜色がない。だから明日は、もっと強力になるかもしれない。それが想像できない。
日中戦争が残した影響で最も大きなものは、機種と運用能力のアンバランスを読み取れなかったことだ。中国は曲がりなりにも世界の新鋭機を揃えた。しかし運用能力はほとんど無いに等しい。たとえばホークIIIに急降下爆撃の能力があったが発揮させることができず、狭い揚子江を逃げ回る日本艦艇を撃沈することができなかった。
そして空戦は格闘戦に終始し、日本海軍に強固な先入観を持たせた。結果が零戦である。後にシェンノートのフライング・タイガース
AVG(American Volunteer Group)が、世界は決してそんなものではないと証明したが、読み取ることはできない。情報をインテリジェンスにできないのである。
水偵の評価もそうだ。世界は固定脚さえ過去のものにしようとしているとき、どうしようもなく抵抗の大きいフロートに固執させたのは、95水偵の意外な活躍の影であろう。役に立つ機種として、時代の趨勢に逆行する判断をさせた。
そればかりではない。戦艦とか巡洋艦は複座水偵と3座水偵を搭載していたが、複座機のほうが幅を利かせていた。砲戦主義がベースにあって当然なのだろうが、日中戦争の影響もあったからだろう。いうならば戦術的な雑用機が力を持ち、戦略機種は隅に押しやられる妙な逆転がまかり通っている。
●艦隊の目
旗艦三笠を先頭に、戦艦群が続き巡洋艦群が続く。海軍の念頭にある艦隊は戦争に敗れるまで日本海海戦そのままだった。どうしようもなく過去を引きずる。敗れて後も大艦巨砲に情念が残り、戦艦大和は宇宙に飛ぶ。
その艦隊の目を担うのが複座水上偵察機で、目は射撃精度を判定するためだ。どの艦も、長距離索敵用の偵察機より、多くの弾着観測機を搭載する。長距離よりも短距離を重視するのが日本海軍の姿勢なのである。哀しいかな近眼なのだ。
艦載砲の最大射程はせいぜい40km、確実に命中させようとすれば20km以下だろう。光学器械による距離測定は10km程度が限度である。精度の点で20kmもあやしい。砲撃精度を測定するため敵味方互いに水偵を飛ばせると、必然的に空中戦が起きる。だから日本海軍は水偵に格闘能力を求めた。そして弾着観測を主務とすれば行動範囲は知れていて、複座水偵の索敵範囲は150nmもあれば十分だった。
レーダー原理は古くから知られていた。日本海軍とて知らなかったわけではない。しかし電波の輻射は逆探知されることも知っていた。レーダー開発の提案があったとき、「闇夜の提灯」論が開発を否定した。かえって所在や位置を知らせることを恐れたのである。
たしかに逆探知は問題である。ヨーロッパにおける第2次世界大戦の空は、まさに逆探知の闘いだった。現在でも電波戦は逆探知をめぐって行われ、高度な発達を遂げている。
しかし逆探知はレーダーの技術が基礎にならなければ存在しない。アメリカは1940年頃には実用の域に達していた。艦隊の目をさっさとレーダーに置き換えたのである。そして優劣は数次のソロモン海戦で逆転した。
アメリカだけではない、イギリスもドイツも第2次世界大戦が始まるときには、艦隊はすでにレーダーを備えていた。1941年5月、大西洋で行われたビスマルク対イギリス艦隊の海戦は、互いにレーダーを使っての闘いであり戦艦フッドが轟沈している。ビスマルクもイギリス艦隊のレーダーの目は逃れられず、ついには撃沈される運命を辿った。
長距離波の暗号は解読されているのにも気が付かず、近距離波を闇夜に提灯などもっともらしい理屈で拒否する。戦略レベルで大穴を開け、そのくせ戦術レベルではやたら神経質になるのは今でも変わらぬこの国の習性なのだ。 |