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●マレー沖海戦
日本の中国大陸への行動はアメリカの石油禁輸となって跳ね返ってきた。日本にはわずかな備蓄しかない。とても近代国家を維持できる状態ではなくなり資源を求めて南方に軍事進出せざるを得ない。
進出に当たり2つの障害があった。1つはハワイのアメリカの太平洋艦隊で、もう1つがシンガポールのイギリス東洋艦隊である。幸いイギリスはドイツを相手に全力で戦っている。シンガポールにまで戦艦を配置できる余裕が無い。日本海軍は乾坤を傾けてハワイに戦力を傾注できると思った。
ところが日本の開戦準備がのっぴきならぬ転換点を越えたとき、イギリスはシンガポールに戦艦プリンス・オブ・ウエルスと巡洋戦艦レパルスを配置した。決定は1941(昭和16)年5月のことである。両艦がシンガポールに展開したのは12月2日の午後、実に開戦6日前だった。
日本海軍はもはや計画を変更できない。ハワイに連合艦隊をとられて対抗する南方艦隊はイギリス艦隊に著しく見劣りがする。ここは乾坤一擲航空機で勝負するしかない。
当時は誰も洋上を自在に疾駆する戦艦が、航空機によって沈められるなどと信じない。それだけ不沈艦のイメージは強かったし航空機の評価も低かったのだ。常識が反転する姿はただごとではない。強固な先入観念がひっくり返るさまはそれだけでドラマになる。まして戦争であれば、民族の興亡がかかった一大叙事詩だ。
シンガポールの東洋艦隊はチャーチルが日本の南下をくい止めようとした抑止力だ。だからマレー沖海戦は制海権が制空権に席を譲るドラマになった。しかも不沈艦が敗れた。ものに動じないさすがのチャーチルも、大戦回顧録で最も衝撃的であったと述懐している。大英帝国の没落を予感したに違いない。
日本海軍も本気で航空機が不沈艦に勝てるとは思っていない。そこで3段の対応策を立てた。第1が機雷の敷設である。アナンバ諸島からチオマン島までとシンガポール沖の予想経路に540個の機雷を敷設した。終了したのはきわどく開戦48時間前だ。
第2が潜水艦の配置である。12隻の潜水艦を3段に配置した。とりあえずは索敵が主務だが潜水艦が主力艦を討とうとする意欲は明確だ。艦長たちもその気でいたに違いない。
そして最後が航空隊である。第22航空戦隊と第21、23戦隊の一部である99機の陸上攻撃機、36機の戦闘機、6機の偵察機が配置された。9機1中隊の攻撃機が索敵の日直につく。
イギリス東洋艦隊はシンガポール到着から出撃までの短い間にアメリカを通じ、あるいは自己の偵察によって日本南遣艦隊の編成と隻数、艦名、提督を知っていた。機雷原がどこに敷設され、潜水艦の配置、航空隊と機数もである。
機雷原をかわしての出撃はイギリスの確かな情報能力を物語る。最初の発見報を打ったイ65潜水艦はいちばん外側の配置であった。だから艦隊がもう少し東よりのコースを辿っていたらマレー沖海戦は違った展開になっていたはずだ。
イギリス艦隊の出撃は日本南遣艦隊と互角以上の戦いができると思っていたからだろう。1年前に旗艦プリンス・オブ・ウエルスはドイツ戦艦ビスマルクと砲火を交え、最後にはこれを沈めていた。半年前には地中海で孤塁を守るマルタ補給戦で、ドイツ空軍とイタリア空軍の猛攻を凌いでいる。航空機攻撃を恐れていた気配は少ない。
日本側船団直衛の南遣艦隊も海戦の前夜、護衛の任を果たすため巡洋艦の8インチ砲でイギリス戦艦の14インチ砲に挑もうと悲壮な決意であった。航空機の攻撃力は8インチ砲にも及ばないと思われていたのであろう。
マレー沖海戦で最初にイギリス艦隊にとりついたのは美幌航空隊の96陸攻白井中隊であった。兵装交換で出発が遅れ、08:55サイゴンを離陸した。南進の途中で索敵3番機の発見報を聞き直ちに変針、まっさきに東洋艦隊を発見した。
高度3,000メートルで爆撃針路に入る。プリンス・オブ・ウエルスはすべての5インチ高角砲、1分に6万発の2ポンド対空機関砲群、40mmのボフォース砲、12.7mm
16挺を打ち上げ阻もうとする。レパルスと3隻の駆逐艦も弾幕を張り艦影も定かではない。中隊8機は弾雨を衝いて2番艦に照準、250kg爆弾を投下、1発が命中した。
すかさず雷撃中隊が次々と駆けつけ、超低空で襲いかかる。世界の常識は覆り、不沈艦は航空機に屈した。
●96式陸上攻撃機
1930年代に入って航空は飛躍した。低翼単葉全金属セミモノコック構造が実用の域に達した。コンスタント・スピード・プロペラ、フラップ、引込脚と以後主流となる技術革新の時代だ。
1933(昭和8)年の試作、8試特殊偵察機はこういう潮流の中で設計された。珍しく海軍は航続距離をなるべく長くする以外に特別な注文をつけなかったから、8試特偵はのびのびと先端技術を取り入れて出色の性能を発揮した。
ロンドン軍縮によって日本海軍は、主力艦をアメリカ比60%に制限された。仮想敵国アメリカの艦隊を迎え撃つには何らかの工夫をしなければならない。まずなるべく遠くで発見したかったのである。8試特偵に出された長大な航続力はそのためだ。
8試特偵は時の主力戦闘機90艦戦より速く、操縦性も良く、海軍を小躍りさせた。すぐさまこれを土台に9試陸上攻撃機を着想した。正式採用されて96式陸上攻撃機になった。偵察は攻撃機の副業にすればよい。これがロンドン軍縮に対する密かな回答だ。
海軍が言う攻撃機は水平爆撃もできる雷撃機なのである。そして主体は雷撃だ。逃げ回る艦船を追い、射点につくため操縦性と運動性が良くなければならない。投下後の回避も素早い必要があり、翼幅25.00m、全長16.45m、全高3.69m双発という大型の飛行機が、雷撃するなどあまり世界に類を見ない。イギリス艦隊もこんな大きな飛行機で雷撃されるとは思わなかったろう。
マレー沖で戦った96式陸上攻撃機22型は翼面積も75.00u、自重4,965kg、全備重量8,000kgであった。乗員は7名。最大速度376km/h(203ノット)、巡航速度278km/h(150ノット)、雷撃速度は278km/hから333km/h、カタログ航続距離は2,870kmだが、実際は編隊飛行などで2,000km程度である。しかし偵察荷重では4,380kmにもなり、イギリス艦隊を見つけた索敵3番機は13時間になんなんとする飛行をした。常識外れに航続距離が大きく、イギリス艦隊が油断したのも無理は無い。
試作段階のエンジンは91式水冷600馬力2基であったが、空冷金星2型680馬力に換装して実用性が向上、さらに3型790馬力で採用になった。ナセルは片発時を考慮し、洗流が垂直尾翼に働くよう少し外側に向いていた。
金星は昭和10(1935)年の試作で140mm×150mmのシリンダーを持つ32.34リッターの空冷14気筒エンジンである。96陸攻は昭和11年制式採用だからきわどい。直径1,218mm、全長1,540mm、重量532kg。きわめて信頼性の高いエンジンで、金星1型650馬力から金星62型1,320馬力にまで発展した。プロペラはハミルトン・スタンダード金属製可変3翼である。
主翼はユンカース式の補助翼を持つ金属製でスプリット・フラップがあった。胴体はセミモノコック。機首は密封式のため前方武装が無く、特に前下方の視界は無いに等しい。中国戦線ではここから撃たれ、なす術も無く被害が続発した。マレー沖でも水平爆撃では駆逐艦を戦艦と誤認している。
垂直尾翼は優雅な2枚、主脚柱は1本で車輪は半引っ込み式。尾輪は固定式である。生産数は三菱が636機、中島が412機のトータル1,048機であった。
攻撃武装は800kg魚雷×1もしくは500kg爆弾×1、250kg×2である。ほかに陸上攻撃用に60kg×12も可能であった。胴体が細く爆弾倉がないため外装であった。
マレー沖で使われた魚雷は91式改2、弾頭炸薬は200kg。500kg(50番)爆弾は薬量205kgで70mm鋼板を貫徹する。白井中隊は50番が足りなくて25番爆弾2発を搭載した。25番は50mm装甲までが限度で炸薬量56kg、したがって防備の薄い2番艦を狙った。
防御兵装は上部ブリスター型銃座に20mm×1、左右ブリスター銃座にそれぞれ7.7mmが1、胴体中央下部に7.7mm×1である。マレー沖では全銃座射撃しながらイギリス艦隊を突き抜けている。
●索敵2番機と4番機
夜が明けるや潜水艦情報をもとに9機の索敵機と2機の偵察機が飛んだ。攻撃隊も敵を見ずに発進し、索敵を兼ねて南下する。僥倖が頼りの危うい作戦であるが、功名心と必死の索敵が幸運をもたらした。
10:00の推定位置で考えると、もし索敵2番機がもう20分変針点を伸ばしクアンタン沖で反転したら、たぶん10:00「敵艦見ユ」の電報は2番機から発せられたことだろう。しかし2番機は規律正しく計画線を飛んだ。
引き換え4番機は索敵の早い時期から変針している。それが計画線であったとは思えない。機長の独自判断で変針したに違いない。出発前の状況説明を聞きイギリス艦隊の行動を推測すれば、もっとも発見の可能性が高いのは機雷原を避けて陸岸に近づくと判断したのだろう。3番索敵線との交差もいとわず、しかも3番機よりも高速で飛んでいる。
3番機も計画変針点から予定外の南下をした。余分に飛んだのが約1時間20分、もし予定通りに飛んでいたら、10:25か10:30にはイギリス東洋艦隊を見つけていたに違いない。情報収集の重要性を立案者と実施者がどう捉えているか、はからずもマレー沖海戦の索敵が示している。
09:00サイゴンの戦隊司令部は「0340敵主力ノ位置、オビ島ノ173度200マイル、南方ニ逃走中。4、5、6番索敵線ノ進出距離ヲ600マイルトス」と送信し、09:30に「06:00ノ敵主力ノ位置、サイゴンノ190度420マイル、針路180度、速力20ノット」と打電した。情報はあくまで司令部の推定である。
09:00の打電はともかく、09:30の情報は索敵計画を乱し、索敵機に予断を許したことになる。おそらく3番機の予定外の行動は、この情報に影響されてのことだ。
海戦には大捷したが、索敵3番機と4番機の索敵行動は検討されてしかるべきだった。今でも3番機(帆足少尉機)は殊勲の索敵機として評価されている。発見と続く情報打電はきわめて適切であったが、発見を1時間以上も遅らせ、作戦に齟齬をきたしかねなかったのも事実なのだ。
歴史にイフは無いが、歴史の分析にイフが無ければ未来予測は無い。確かに索敵者が航程を正しく飛んだかどうか、見張りに障害になった雲や霧は無かったか、索敵を失敗に終わらす要因はたくさんあったはずである。この索敵態度、特に計画サイドの姿勢がミッドウエーではもろに欠陥として噴出した。
●危うい情報伝達
ドイツが電撃戦を可能にした理由のひとつは確かな情報伝達であった。そのため地対空の無線手段を持ち急降下爆撃隊は地上部隊と連携しつつ作戦した。南遣艦隊の粗雑な情報管理とは大きな落差だ。複雑な近代戦を行うには緊密な情報交換が無くてはならない。いま情報革命が叫ばれているとき、このマレー沖海戦は情報に対する民族の持つ基本的な認識の仕方を教えてくれる。
海戦前日の9日、イ65潜が15:15に発した第1報が司令部へ2時間も遅れた。周波数を合わせていたのは第4潜水戦隊旗艦鬼怒と第5潜水戦隊旗艦由良、それにサイゴンの第81通信隊だけだった。それも空電が激しく解読できない。やっと判読できたのが17時過ぎである。索敵機を飛ばせるのが精一杯で、日没により攻撃はできなかった。
さらに当日10日、イ58潜が03:41発見第1報を発した。艦隊司令部は受信できたが、肝心の04:25に発せられたイギリス艦隊変針の第2報は受信できてない。第4潜水戦隊は受信したが南遣艦隊司令部には逓伝されず、司令部は結局03:41情報で行動している。
06:15第3報がイ58によって打たれた。「ワレ接触ヲ失す。06:15」。方向についての情報が無く、しかも04:25から06:15までは1時間50分である。この間イ58は何も電報を打っていない。イギリス艦隊は20ノットで急ぐ、イ58は19ノットしか出ない。2時間半におよぶ暗夜必死の追跡は何のためだったのだろうか。
広い海面にちらばった部隊のハンディがある。通信に齟齬ができるのは予測できることだ。それをカバーする手段を講じる着意が無い。後々まで海軍の情報伝達不具合は解消されないままだった。
第2次大戦中、アメリカ偵察機の中核をなしたのはF-4とF-5である。はやい話がP-38ライトニングだ。武装をはずして写真機を積み偵察機にした。情報のうち、インフォーメーションよりインテリジェンスに重点を置き、情報収集しようとしたからに他ならない。カメラは4台も積み、必要な場所を撮影するため照準機まで装備した。
ひきかえ日本海軍は、9日イ65潜の発見報に驚いて当日の朝に撮影した偵察写真をあらためて拡大したところ、戦艦であると思っていたのは商船と浮ドックと判明した。写真から情報を読みとるインテリジェンスが見事に欠落している。
マレー沖では戦闘には勝った。しかし情報収集と伝達には多くの問題があった。かろうじて救ったのは功名心と必死の索敵、それに密度の濃い索敵線である。 |