中村光男の部屋
父さんの陸軍中野学校・続

新・尋ね人

戦後58年。新聞・雑誌の固定欄を占めていた「尋ね人」も、いつしか消滅しました。ところが、今年7月19日、長崎県在住の山口(35歳)さんから次のような「尋ね人」の問い合わせが舞い込んで来ました。

一、 尋ね人・中野俊郎(佐世保市生まれ?)
二、 満州で馬賊となった
三、 山口さんの大好きなお祖母さんが亡くなり、葬儀の席で、祖母兄弟のうち長男が陸軍中野学校を卒業して満州で馬賊となったという話が出た。

これが山口さんの好奇心をそそったようです。そして、これがスカイネット・ワンへの問い合わせとなりました。ウェブ上で陸軍中野学校を探すとスカイネット・ワンの「中村光男の部屋」へ行き着いてしまうようです。

それならば、山口さんのお尋ねにお応えする意味でもと、「新・尋ね人」の筆を執った次第です。

<この調査報告は、陸軍中野学校・俣二会(マタニカイ)幹事・山田博氏によるものをベースとした>

●特有の秘匿性

一、陸軍中野学校は終戦とともに廃校、現在では中野の出身者・関係者の情報に詳しいと思われる人は中野校友会本部・事務局長・山本福一氏で、戦後作成された中野校友会名簿作成の実務者の一人といわれています。

二、現在の中野校友会名簿は、22年前の昭和56(1981)年、京都東山「留魂碑」建立を契機として作成されました。現存者を中心として、物故者は出来る限り情報・伝聞・問い合わせを収集して調べあげました。

三、ただ「中野」の持つ秘匿性から、すべてを明らかにすることは出来なかったようです。もともと陸軍士官学校などは明治のころからハッキリした在校・卒業生名簿が確立して、歴史資料としても保存されているが、中野は昭和12年創立以来、どこか(参謀本部など)に名簿は存在したはずだが公表されなかった。

●消息不明を明らかにするために

戦後はどこからか(本校・分校・参謀本部など)のルートと戦友会、同窓会活動もあって、甲、乙、丙、丁、戍、俣一、俣二情報など、種別、期別を明らかにした名簿が生まれ、当事者同志が集まって往事を想い出して作成された。

中野の秘匿性から卒業後の赴任先を互いに知らせず、ときには家族にも知らせず散って行き、互いの消息は知らせなかった。

お尋ねの「中野俊郎」氏についても、乙一とか俣二とかの情報、種別・期別などが判れば(ご家族の中で知っている人がいれば)、有力な手がかりとなります。

校友会の山本事務局長、九州の中野関係者の情報に詳しい「九州・山口中野会」幹事・福島治平氏(九丙、福岡市在住)など先輩、大先輩のご支援をいただきました。お世話になりましたが、中野さんの消息はつかめません。

●「満州の大馬賊」

明治末から大正、昭和の初期にかけて、満蒙の地が青雲の志を発揮する冒険とロマンの活躍舞台視された時代があって、「馬賊の歌」もはやった。

しかし、中野の創立は昭和12年、もはや満州で馬賊になる時代ではない。中野さんの赴任先が満州で、その後行方不明となったので「満州の馬賊」へ展開したのかもしれない。

「馬賊の歌」を知っていますか。

昭和のはじめはレコード時代で、「急げ幌馬車」(松平晃)、「国境の町」(東海林太郎)のほかアングラ・学生歌として「昭和維新の歌」、「馬賊の歌」、「植民の歌」(満蒙開拓義勇軍の歌)などが流行しました。若い人の集まりには欠かせないものでした。中野さんも歌ったに違いないと思います。

なお蛇足ですが、58年前の酷暑、私の戦友・山田博氏は南京より長江をさかのぼり九江に到着。第六方面軍司令部に合流、武漢三鎮の特務機関「大和機関」を創設。戦友は南昌、柳州、長沙へ分遣。

山田さんは帰順した汪兆明(精衛)軍の欧陽毅少将配下の部隊を再編して、直面する止江その他航空基地への潜入攻撃を計画しました。

そこへ、ソ連軍参戦の報によって、計画は変更、部隊は北上して内蒙古の張家口へ転進。

この転進赴任を前にして、緑濃い真夏の漢口陸軍病院へ私を見舞ってくれました。真昼は40度(30度ではありません)の酷暑で、当時のことを想い出すと、胸がつまります。

「新・尋ね人」になんの役に立たぬことをお詫びします。ごきげんよう。

2003年8月5日  中村光男(俣二、稲城市在住)

注・俣二会。天竜川(静岡県)二俣に分校を開設、その分校の二期生ということで俣二会と命名