ニシさん ■11.20.2003

入社3日目、眼鏡を掛け色の白い青年が声を掛けてきた。
「今夜一杯どうですか?」

いかにも育ちが良く、頭も良さそうである。見れば歳は同じくらいだろう。気軽に同意したが、以来40年近くあきもせず付き合っている。まあ付き合って貰っているのかな。

僕には規準があって、アタマは3流ムネ2流、ハラが1流なのである。いくら頭が良くても3流は3流なのである。だから東大卒といわれても驚かない。残念ながら東大卒には、3流が甚だ多いのである。ニシさんも東大を総代で卒業しているが、理屈を捏ねているのを聞いたことがない。1流も上の部類だ。

「オマエの星は二黒土星だ。黒幕として大成する星である。ニシさんは一白水星、将の星である。したがってオマエはニシさんを助けよ」。そう厳かに言った人が居た。何やら騙されているようにも思え、ひどく損な役割にも思えたが、昔から暗示に掛かりやすく、「それじゃあそういうことにしましょう」と約束し、40年が経った。

思い出すのは酒ばかり。「男が仕事をする3つの理由がある。カネとオンナと好奇心」。居酒屋である。訳が分からぬのは酔っているからだが、何でも3なのは脳が弱いからに過ぎない。もちろん弱いのは僕だ。

昭和40年代の初めの頃、資材輸送が会社の土台を支えはじめたとき、ニシさんが次の時代の用意をしようという。二人は日本橋の赤提灯に居る。店の名前は水石。カウンターがあって、5人も座れば一杯になってしまう路地裏の飲み屋だ。

僕は思い付くまま一方的にしゃべり、彼がイメージを固めて行く。これが二人のルールだ。ニシさんは黙って酒をのみ、僕の杯に注ぐ。

「資材輸送と言っているし許認可もそうなってるが、これは輸送ではない。正確には運搬だ。工場の資材置場から機械の側までフォークリフトが材料を運ぶ、あるいは腕の長いクレーンってとこかな」。

ニシさんの頭の中に、テレビの報道取材や送電線のパトロール農薬散布など、ヘリコプターが辿ってきた展開のプロセスが見える。ヘリコプターのオピニオンリーダーであり続けてもらわねばならぬ。先憂後楽は宿命だ。

「下から山の上まで片道で物を運ぶだけ、距離も平均で3km弱。山を鉄塔だらけにするわけにもいかない、いずれ水平飛行で、長い距離を、しかも往復運ぶ形にしなければ事業は安定しない」
「オフショアー」
「うん、オフショアー。とにかく不特定多数の客を運ぶ前に、石油会社から収入を心配しなくていい仕事を貰わなくてはね」

輸送のために解決しなければならない技術的なテーマがある。一つは安全のレベルだ。仮にも人を運ぶのだから、農薬散布や資材輸送の事故率の1/100程度にしなければならない。

「10万時間で20件。これがヘリコプターの悲しい現実。1/10で2件、これでは人は乗せられない、どうしたって1/100にもっていかなければ」
「双発が要るな」
「カデゴリーA、ルート、高度、飛行要領、考え方の位相を変えなければ駄目だ。担当する操縦士の能力が問題だよ。石油会社が飛ばしたいといってきたときは、夜でも天気が悪くても飛べなければ役に立たない。今までの仕事ね、就航率だいたい2/3、まあ65%がいいところ。散布や運搬ならこれでもいいが、オフショアーでは信用してくれんだろうね。そもそもヘリコプターで就航率を気に病んでいる奴は誰も居ない」
「なるほど次は計器飛行か」

ニシさんと僕は飲んでホラばかり吹いていたわけではない。営業と操縦士で直接一緒に仕事もしたことがある。コクピットから見たニシさんもいるのである。

八郎潟で除草剤を撒いて「葦枯らし」に精を出しているとき、ニシさんが営業で付いた。風防の向こうに柄にもなく日焼けしたニシさんが記録をつけている。焼け方が下手でマダラだ。つい笑いたくなる。

3機で威勢良く飛んだのだが、たちまち2機を乗り潰し、とうとう僕の乗る機体が無くなった。仕方がないから機体が復旧するまで、僕とニシさんは残存湖でシジミ取りをする。バケツを水面に浮かべのんびりと貝を捕る。これがアサリほどもあり、とてもシジミとは思えない。2時間もするとバケツは一杯になり、クルー全員の朝の味噌汁は稼げた。

八郎潟からの帰り道、ニシさんをサブ席に乗せて低空を走る。ハンマーヘッドターンを体験させ、送電線の脇に張り付く。「危ないですよ」と言うのも構わず「将来の重役がこのくらい知らないでどうする。これがヘリコプターの送電線巡視」。土崎港で貨物船の脇をかすめて目一杯のプルアップ。「テレビ取材はこんな具合だね」。

あれから10年も経ったろうか、東日本海をSA330Jピューマが飛んでいる。秋も深まってもうじき冬だ。うららかな日である。客がいない運航開始前の試験飛行だから、ニシさんがジャンプシートで計器を眺めている。AFCSを入れ、灰皿を引き出してタバコに火を付けたら、「ミヤタさん手を離さないで!」

酒の合間にエバグリンとS-64のチャーター交渉をした。韓国ではKALとの共同運航交渉だった。中国は民航とのハードな合作交渉もした。事は段々大きくなり、一緒に歩くニシさんも僕も、互いに髪には白いものが混じって歳を取った。


シコルスキー ■09.24.2003

もちろん操縦席からシコルスキーを見たことがあるはずはない。でもシコルスキーを感じることはたくさんあった。

ホバリングでもうじき地面を切ろうとするとき、ラダーを踏み込み操縦桿を左に寄せ、揚力が傾いてできるドリフトを消す。そのときふとシコルスキーを思い出すのである。

たぶんヘリコプターがシングルローターでないならば、ラダーを踏み込むことも操縦桿を寄せることもないだろう。まして重荷重で目一杯機体を傾けてホバリングすることもないと思う。

ヘリコプターの揺籃期、偶力は偶力でなければ打ち消すことはできないと信じられていた。偶力を生み出すためにローターは偶数でなければならない。サイド・バイ・サイド、タンデム、コアキシャル。世界はそう信じて止まなかった。先入観の壁である。

しかしシコルスキーはローターをひとつで済ませようとした。こんなとき、白い目で見られ嘲笑われるのが古今東西の常道である。原理がわかる学者ほど笑うのである。でもシコルスキーはめげない。歴史には必ずこういう男がいる。

シコルスキーが山高帽をかぶり、コートを着て、VS-300でホバリングしている写真がある。このときは既に、シコルスキー社の社長であり専任のテストパイロットが居たはずだと思うのだが、今に伝わる最初のシングルローター・ヘリコプターには、いつもシコルスキーが真面目な顔で操縦している。余程ヘリコプターが好きだったのだろう。

シコルスキーは名のごとくロシア人である。革命でアメリカに亡命した。その時は既に、世界でも名の通った設計者であった。

アメリカに渡っても設計を続け、自分の会社も持ち、事業もそこそこ成功していたはずである。ちょうど大飛行時代で、太平洋路線の開拓が華やかに喧伝され、シコルスキーの4発大型飛行艇アメリカン・クリッパーは先陣を切っていた。少なくともS-42以前は飛行機で名が売れていた。

それが突然ヘリコプターに転向し、世間の嘲笑にも我れ関せず、山高帽にコートで自らホバリングするのはただ事ではない。

アメリカの空を作った男たちは皆自分で飛んだ。シコルスキーはもちろんボーイングもカーチスも、ビーチもセスナもパイロットの名前である。彼らは雲や風や嵐、山も川を知っている。オイルの匂いと振動と、爆音の世界を肌で知っている男たちだ。テストパイロットを押しのけても自分で確かめたい心情が疼く。本当に空が好きなのだ。

偶力は偶力でなければうち消せない。それは学者の言うこと。シコルスキーの飛び屋の部分は、決して理屈に縛られなかったろうし、シングルローターの確信があったに違いない。オトコ(漢)はロマンで生きるのだ。

アエロスパシアルのピューマで資材輸送をしている。荷物が重ければドリフトが大きい。ピッチを上げていくと荷重がかかり、機体を傾け荷物の底が地面を離れるときは7°も傾いている。山高帽のシコルスキーを、機外に見たように思う一瞬である。