続・総理大臣 ■09.13.2003
●その弐

新潟と秋田は日本の石油掘削の本場である。帝国石油の本拠地も石油開発の本拠地も秋田である。もちろん新潟にも油田があったが、どちらかといえば秋田がメインであった。

しかし陸の油田開発は頭打ちになり、興味は海に向かった。オフショアーである。海では立場が逆転し、秋田沖は何本掘っても有望な油田が見つからない。新潟は阿賀野川沖に油田が見つかって焦点が移った。

オフショアーのヘリコプター運航技術に関するテーマは安全性と就航率である。農薬散布で幼児期を過ごし、少年期は資材輸送だった日本のヘリコプターにとって、奇術的な肉体の鍛錬から頭脳への転換が要求されている。しかしこれが、越えるのに容易ではない壁なのである。たぶん今でも、ヘリコプター界に欠けているものは、このテーマをどう乗り越えるかの方程式を持っていないことだろう。

方程式の解はヘリコプターの計器飛行だと信じているらしい。その解はたぶんあさっての方向なのだ。だから乗り越える手段を容易に見つけることはできないだろうと思う。

話はのっけから脇道にそれた。総理大臣である。

新潟でオフショアーの仕事をしていた。機種はベル212。定評の高いPT6エンジンをツインパックにした双発機で、カテゴリーAの機種である。燃料系統や油圧系統など、主要なシステムが二重になっていて飛躍的に安全性が向上した。乗っていて安堵感がまるで違う。

おまけにADF(自動方向探知機)、VOR(VHFオムニ・レンジ)、DME(距離測定器)を装備している。まず悪天候でも鬼に金棒だ。

「田中角栄総理を新津から佐渡まで送ってもらいたい」。本社からそんな電話を貰ったのは梅雨の時期だ。田中氏が総理大臣に就任したのが昭和47年の7月だから、たぶん翌年の6月頃だったろうと思う。

角栄氏はバートル107で新潟に入るはずだ。ベル212の出る幕ではないだろう。ともかく昨日までライバル福田赳夫機のコパイだったのだから、べつに義理はないようなものの、心楽しくはない。

そうしたら本社曰く、バートル107は満タン満席では海を渡れないのだそうだ。もし片発になったら、残念無念と高度が下がって最後はデッチング(着水)してしまうらしい。

そうならば話は別である。機種といえば見てくればかり流行る世の中、戦闘機に描かれた絵がどうのこうのと、軽薄な興味が横行して腹が立つ。いささか腹の虫が治まらない気分だ。オトコはカッコウじゃない。そんな世相に反撃になら喜び勇んで代役を務めよう。

新潟空港で気象をチェックしたら雨だ。まだ降ってはいなかったけれど雲は低く、総理大臣を乗せて飛びたくなるような天気ではない。今日はダメだと断ったら、ひっきりなしに電話が掛かってくる。応接でうんざりした。しまいには県警本部長から直接の電話で、来るだけでもいいからと懇願された。もう断りきれない。

やむなく新津まで行こうと新潟空港を離陸した。着くとヘリポートは演説会場の近くだ。それでもヘリコプターを振り向く人はいない。オラガ国の総理大臣に群集は熱狂している。自民党新潟県連青年部の議長が飛んできて挨拶し「お願いします」という。

冷たいようだが行く行かないの判断は天候いかんにかかっている。「電話は何処ですか」と聞いて角の煙草屋に出かけた。公衆電話で新潟空港の気象室を呼び出し、予報を聞く。

帰り道の途中で雨が落ちてきた。はなはだ面白くない展開だ。ところがこちらの気分をよそに、演説会場のほうからはどよめきが聞こえる。角栄節が絶好調なのだろう。

予定の時間を過ぎ、雨脚も好転はしない。もう一度予報をとってくるからその間は誰も乗せるな、そう念を押して公衆電話に向かった。

「駄目だ」と思ってヘリポートに帰ると、十重二十重の人垣である。警護の若い警官が手を広げ、険しい顔で職務質問する。乗せるなと言ってあったし天候も飛べない。それなのに事態は逆に動いている。目の前の居丈高な警官に向かっ腹が立った。

睨み合っていたら県警本部長が飛んできて、若い警官の顔が驚愕で凍りついた。

角栄総理はシキタリどおり機長席の後ろに座り不機嫌な顔である。今太閤にすれば乗ったらすぐ離陸するはずなのに機長がいない。周りの人垣はバンザイを連呼し、総理は果てしなく笑顔で応えなければならないのだ。

「国会活動は票にならないんだ。当選するには今でも、橋やトンネルを造り、歌謡ショーを開き、選挙民にこたえなければ駄目。力が10あるとすれば、6はカネ集め、3は選挙だ。1が国会活動」。角栄さんの信条である。笑顔を作り続けるのはくたびれる。

腹を括った。総理がいて、衆議院議員、参議院議員、県会議員その他大勢満席。VIPと思うと大変だが、石ころと思えば飛べない天気ではないしコースでもない。

帽子を取って総理の目を見る。「今からあなたの命、この私が預かります」とは心の中。

ときどき雲低が200フィートを切る。前方に煙突が現われ回避した。右に左に絶え間なく障害物をよける。雨が流れてワイパーを止めることはできない。VORは届かないがADFの針は空港を指している。ならば困ることはない。

ところがコパイの顔には位置を追跡できなくなった不安が広がっている。これはまずい。

「よし!インスツルメント・ライトをみな点けろ!」
「ブライト一杯だ!」
「ポジションは何処でもいい、地図を指差せ!」
「笑え!」

ともかく西へ飛べばいい。あまり南に下がると弥彦山があるが、気軽に平野を海岸へ飛ぶことだ。精密な位置などこの際考えない。よく見張り、いっときいっときを安全に過ごすことが大事だ。やがては海岸線にぶち当たる。海があって向こうは佐渡だ。歌の文句にもあるではないか。海は荒海向こうは佐渡よ。

運良く海に出ると雨が上がった。雲も高くなり佐渡が見える。

ヘリポートが演説会場である。電柱に寄りかかって聞いていると、「見なさい角栄には天が味方して、雨が降っても飛んでくることができた」といっている。万雷の拍手だ。思わず苦笑して手を叩いた。政治家は面白いことを言う。

ドラマチックでも何でもないのだが、遥かな昔、まだ福田赳夫機のコパイをしているとき三浦三崎に降りた。若い政治家の応援に福田派領袖が駆けつけたのだ。離陸する機体の脇に襷を掛けた立候補者が立ち、白い手袋が福田氏の手を握っていた。

若い政治家の名は小泉純一郎、今の総理大臣である。ヘリコプターの操縦席からは総理大臣も見えるという一席。


総理大臣 ■08.25.2003
●その壱

すべては空である。あえて一があるとすればそれは師であろう。そう言ったのは道元禅に心酔した岡潔である。そしてその気になれれば、操縦こそは師弟にふさわしい。操縦装置は臍の緒のように師弟を結び付けているのだ。

ベル47も204もアルエットも岩崎さんに教わった。仲人は岩崎さんに頼んだし生き方も教わったと思う。生死の関頭に立ったときの岩崎さんは見事だった。そんなこともあったのだろう昭和47年の11月、岩崎さんに選ばれてコパイを引き受けた。

機種はベル204B、久しく総理候補といわれていた福田赳夫氏の乗機だ。岩崎さんは前の総選挙の時から福田赳夫氏乗機の機長を務めていた。相性が良く、ふたりはたちまち肝胆照らす間柄になった。ちなみに戦争中岩崎さんは大西滝次郎中将機の機長でもあった。人に信頼される何かが備わっているのだろう。

この昭和47年は自民党政治の天王山と目されていた。巷間「角福大戦争」と言われ、田中派と福田派が一頭地を抜いて鎬を削っていた。だが自民党には他にも派閥があって、大平派とか中曽根派も虎視眈々と総理の座を狙っていた。負けられない選挙であった。

最初のコースが山形の酒田から函館までだ。東北電力の酒田ヘリポートで福田氏を拾い函館まで送る。一国の宰相ともなるべき人を無事送り届けるには、季節も悪いし機体の装備もふさわしくない。不足を補うには、クルーの中に氷のように冷徹な者が必要だ。いかなるときも黒子に徹し、安全を計算する理性が要る。

東北と北海道の冬空は特別である。慣れなければ飛ぶときが無いと思わせるほど暗く激しい。幸い秋田の常駐が永く、毎月北海道も飛んでいた。東北はお手の物である。

天候と航続性能から燃料補給は大潟村の中央広場が適当である。空港の三伝商事に電話してドラム2本を手配した。補給は横殴りの雨の中だった。

能代で雪になる。こんな天候のときは、時間を節約しようとしてはいけない。海岸に張り付いて飛ぶのがもっとも安全で確実な手法である。五能線に沿って鯵ヶ沢を回り青森に近づく。霏霏として雪が舞い吹雪だといって慌ててはいけない。ほぼ30分のインターバルでポッカリと青空の穴が開く。待つのだ。だから燃料を大潟村で積んだのだ。

青森の空はたちまち雪に閉ざされた。福田氏一行は脈なしとみて直ちに青函連絡船に切り替え空港を去っていった。肩の荷が下りたクルーは機体に凍ったカバーを掛け、引き上げようとロビーに来たところで電話が入る。「やっぱり先生は岩崎さんの機体で函館に行きたいとおっしゃっています」。

本音は海が荒れて青函連絡船も欠航になり、函館に入るにはヘリコプターしか手段が残されていなかったのだ。しかし宰相に信頼された岩崎さんの感激は並みではない。二つ返事で行くことを決意した。

岩崎さんの決断に異論は無い。雪がどんなに降ろうが風が吹こうがここからは海である。しかも雪、さらさらしていて機体に着くことはない。

津軽半島を蟹田まで飛んで直角に陸奥湾を渡る。最短で下北半島だから後は北上すれば厭でも応でも大間崎だ。津軽海峡は真北に飛べばいい。函館を見つけるのに苦労は無い。

空港には県議会議長や地元県議員、参議院議員などがうようよといる。警備は県警本部長が直接出張っている。空港長も職員もVIPが缶詰にできるくらいいて、その対応に押しつぶされそうだ。目が釣りあがっていた。早いとこヘリコプターに飛んでいってもらいたい。

幸い青森にはしょっちゅう出入りしていたし面識もある。大丈夫ですよと念を押しておいたから素直にフライトプランが通った。ただし5マイル・アウトはなるべく早くコールしてくれと頼まれた。

案外小降りな雪の中を3マイルくらいで5マイル・アウトとコールした。タワーはすかさず「ナウ ビロウミニマム!」。ハイ・コーンからレットダウンを開始していた定期便が、仕方なくダイバートして行った。

岩崎さんは設定したコースを正確に飛んでくれ、難なく函館に着くことができた。信頼されたのが嬉しい。下北半島の途中からは雲も雪も消え、嘘みたいに夕焼けの北海道が手を広げて待っている。

福田赳夫氏が総理になったとき、機種はベル212になり岩崎さんの後任として機長を仰せつかった。装備も充実し海岸を這う必要が無くなった。

伊丹空港で総理の搭乗機を待って樫原神宮に案内する。神宮から富山を回り金沢までがスケジュールだ。空港に着いたら職員が駐機場に来てくれという。車に乗せられて案内されたのが特殊な場所で、スキッドの位置が赤チョークでマークしてある。見れば向こうにもマークがあって、JALの機体の車輪の位置だそうである。何事ならんと思ったら、2つの機体のドアが一直線になるようパークしろとの注文なのである。へえ!と思った。

コパイは岩崎さんのように自分で選べなかった。会社お仕着せだ。何を考えての人選か知らないけれど、相性などはまるで考えていない。信用できない相手と一国の宰相だ。これはエライことになった。すべては自分ひとりで負わなければならない。

乗るときも送るときも、表情を崩さず操縦席の脇で礼をした。厳密に距離を置いたし親しくもするべきではないと覚悟した。


クルー ■08.14.2003

初めてヘリコプターで日本海を渡ったとき、会社全体が緊張した。会社開闢以来の渡洋飛行であり、世界の歴史始まっての出来事である。機種航続距離の2倍を飛ばねばならず、おまけに利用できる航行援助施設が無く、大半を推測航法で飛ばねばならない。社長も専務も平静ではいられない。

なにより戦慄させたのが韓国の空域を横切っていくことだ。朝鮮戦争が遙か昔のこととはいえ、当時中国はまだ北朝鮮と共に、韓国にとって敵国である。中国との境界を黙って通してくれるはずがない。日本とのFIRを通過した途端、戦闘機の邀撃を受ける可能性があった。政治的な問題に巻き込まれないようにしなければならない。

飛ぶベル212は15人乗りである。必要な燃料を積むために増槽を付けたら、3人しか乗れない計算になった。それでも重量はぎりぎりである。

飛ばすほうから考えても、パイロット2人整備士1人は最低限のクルーだ。1人が操縦、1人が航法、1人が燃料管理である。増槽は臨時に付けたから燃料計がない。誰かがディプスゲージで計らなければ残量が分からない。もし算定結果が2人になったら、パイロット2人で飛ぶことになったがさぞ苦労しただろう。

重量がぎりぎりだからディンギー(救命ボート)を下ろした。下ろしながら考えた、これでは帝国海軍ではないか。どうも日本人、発想は時代が変わっても同じになるらしい。保命がどこかに行ってしまうのだ。しばらく考えて燃料の5ガロン缶を10本積むことにした。使い終わった後は筏になるだろう。

保命といえば水と食料。3日分くらいが欲しい。それを用意して「オレが預かる」と言ったら、てんで2人が承知しない。「ミヤタさんはそそっかしい。ディッチングしたとするでしょう。その時『アッ』とか何とか言って落とす」、「そんなの厭ですから」。

保命でもうひとつあった。エマージェンシー・ロケーターである。どうしたいきさつか忘れたが、電波監理局の検査を通っていない。係りが来て、だからダメだという。

「発信したら逮捕されてしまいますよ」
「嬉しいねぇ。東シナ海の真ん中で、電監が真っ先に逮捕に来てくれたら嬉しくて涙が出るねぇ」

スリルとサスペンスドラマで無事に上海に着いた。ところが中国民航、今度は天津まで空輸してくれと言う。打ち合わせの時、内陸は国防上の理由により外国パイロットには飛ばせられないと言っていたのに、わずかの間に不意打ちだ。人治の国はアテにならない。

しかも言われたのが到着したエプロンでのこと。そこで地図を広げた。ジェプソンの地図だ。指定された南京も済南の空港も載っていて、「OK」と答えたら周囲が険しい。

「何でオマエがこんな地図を持っているのか?」
「こんなの世界中で売っている。買えないのは中国だけだろう」

ある種の国では、地図は一級の国家専管品である。幕末にシーボルト事件があったし、第2次世界大戦が終わるまで日本も、帝国陸軍の専管事項であった。この国もまだそうなのだろう。

自由とは何か、地図を囲んでいる人たちがすぐ悟った。雰囲気がたちまちに溶ける。百聞は一見にしくはない。

「でも南京や済南でタワーにどうやってコンタクトするのです? 英語は通じますか?」
「中国民航のナビゲーターとラジオ・オペレーターを同乗させます」
「でも座席は外してますよ」
「なあに箱にでも座らせますよ」

さすが共産独裁の国である。次の日ほんとうにナビゲーターとラジオ・オペレーターが来て握手。上海から乗った整備士のケンちゃんを含め、クルーがいっぺんに6人になった。もちろん燃料は本来のタンクだけでいい。

上海を離陸して肩越しに紙切れが来る。紙にはヘデイングと高度が書いてある。振り返るとナビゲーターが親指を上げて笑い、僕もサムアップして答える。

「おい、この諸元で飛べってょ」
「へぇ、やたら高度に端数がありますねぇ」
「メートルを換算してるのだろ」

眼下に中国悠久の大地、左下には太湖が広がり詩情をかき立てる。天気は抜けるほどの青空だ。指定高度が6,560フィート(2,000m)、夏とはいえ涼しい。まさに快適な飛行である。

突然ラジオがやかましい。どうやらこの機が送信しているようだが意味は全く分からない。また振り返ると今度はラジオ・オペレーターと目が合う。

しばらく中国クルー同士が会話していたが、ナビゲーターが紙をくれた。新しいヘディングと高度が書いてある。なるほど、クルーはちゃんと職務を果たしているわけだ。

それにしても指示される高度がヘリコプターらしくない。9,840フィート。常州のあたりで反航して来たミル8はゆうに12,000フィート以上はあった。超過禁止速度や性能はどう理解されているのかしら。

交信し筆談し、和気藹々のうちに事南京空港に着いた。中国クルーがフライト・プランも手はずは全てやったから良いと言うが、ウエザーを知らずに飛べるわけがない。ブリーフィングを受けたいと言ったら困った顔だ。それではと気象室に案内してくれたら大体は読める。職員が熱心に説明してくれて、ラジオ・オペレーターが一生懸命通訳をしてくれた。まさか分かるとは言えなかったので、感謝して離陸した。

南京から済南、海岸を迂回して飛ぶ。たぶん国防上の理由とみた。中国で軍歌は法度と聞いていたが、右手遠くに徐州が見えてきたときは、遂に「麦と兵隊」を口ずさんでいた。あの辺りの何処か、叔父が徐州作戦で歩いたはずである。

済南の手前に泰山がある。午後3時頃で雄大積雲の柱が立ち、烈日を返して光っている。その間から泰山が見えた。歴代皇帝も登る山、是非あやかろうと思ったが、ナビゲーターの渡してくれるヘディングとはひどく違う。

黄河が見えて済南空港が見えて、遂に皇帝の真似ごとはできなかった。

済南空港では国際混成クルーの頭上をミグ19のエシェロンが駆け抜け、引いているバンナー(標的)を落とす。こりゃあ戦闘機基地だ。

時刻は4時、まだ天津までの航程があるというのに歓迎会である。滅多にないのだろう中国クルーは嬉しそうだ。なにしろ円卓を囲み、豪華な料理とビールである。まだ飛ばねばならないと固辞するが、乾杯乾杯に心底参った。

天津までは強引に1,500ftを要求して飛んだ。これがヘリコプターの飛行である。10,000ftは似つかわしくない。

天津について中国クルーと別れるとき、僕らは彼らに感謝を伝えるすべがない。咄嗟にかぶっていた帽子を差し出し、彼らも快く受け取ってくれた。

それから数日が過ぎて、中国側に機体を引き渡し、僕らは北京から中国民航イリューシン62の客になった。搭乗すると驚くなかれ入り口にナビゲーターが居る!

彼氏も驚いたろう感激の握手。機内に駆け込んでラジオ・オペレーターを引っ張ってくる。オペレーター氏何事ならんと付いてきたら僕たちが居た。またもや感激の握手。続く客が怪訝な顔だ。

僕たちの席を見るや荷物を持ってついて来いと言う。1等席に座らせ心配するなと言い、スチュワーデスに何やら申し渡すと仕事があるからとコクピットに帰っていった。中国機に乗ってこれほどのサービスを受けたことはない。

成田でも、「僕たちの中国クルー」の見送りを受けて機を離れた。