ホリチャンは襷掛け■03.27.2003

今は大潟村になっているが、その昔は八郎潟である。そして潟は南北に27km、東西が15kmの汽水湖であった。たしか深くても4mくらいだったろう浅い。戦争に負けて食料が大変だった時代、干拓して水田にしようとした。

思いついたのがオランダの干拓である。堤防を築き、水を掻き出して陸地にする。工法は「これだこれだ」というわけである。

周囲に調整湖を残して堤防は49km余になった。堤防が少しずつ延びていくのを眺めながら、人間は大変なことをするものだと思った。湖の隣の山を削って平らにしてしまったのである。営々と努力する、そんな言葉が想い出されて健気なのに感心した。今なら環境破壊がどうのこうのというだろうが、ひもじさが実感として残っていた時代である。

堤防が50kmになって式典があった。そのときも上空を飛んで、もう少しでつながる堤防を、期待で眺めたりした。堤防が52kmで完結し、排水が行われ、濡れた湖底が現れたとき、太古の神秘をかいま見たような感動があった。少なくても空からしみじみ眺めたのは自分だけだという特別な感情もある。

湖底が出ると葦の種を撒いた。周辺の農協から特別に買い求めたのだ。農協も変な売り物に戸惑っただろうと思う。撒くほうも困惑した。たぶん葦の種を撒いたのはこの国の歴史始まって以来、僕だけだろうと思う。これから先もないだろう。

葦は湖底を乾かすために撒く。地下茎がまんべんなく根を張り葉が大きくて多い。地中の水分を素早く蒸散させて乾陸が速いのだ。オランダの正統的な工法である。

初めての散布だったが、これがまた見事に繁茂して丈が3mにもなった。野生の植物だから当然と言えば当然なのかも知れないが、自分の撒いた葦が伸び、風にそよぐのを見るのは驚きである。しかも蕭々として水を吸い、大気に吐き出しているのを想像して呆れた。

オランダでは10年放置してヘドロを十分に乾かし、それから耕地にするのだそうだが、せっかちで飢えている日本は3年と待てない。今度は枯らせる段取りである。除草剤を撒く。

除草剤は何やらいう薬で、これが気味悪いくらい効いた。撒いて3日もすると葉が黒く変色し、1週間もすると茶色に枯れるのだ。見渡す限り緑の中に、死に絶えた茶色の帯が広がるのは不気味である。万物が命を謳歌している初夏に、摂理に反してしてはならないことをしている、もそんな気分に落ち込んだ。

しかし若い。若いのは辛気臭いことは苦手だ。すぐ気を取り直し溌剌と散布した。ヘクタール当たり240kg、通常の水田散布の10倍も撒く。時間あたりの離着陸回数はベラボーになり1日で100回を超えた。散布装置は耐え切れず、機体も酷使されてたちまち動かなくなった。僕の機体は強制冷却ファンのマウントがイカれ、クラックが入ってしまった。普通ならこんなところがイカレルはずはないのである。

代わりのマウントを工場に要求したが、まともに送られたのでは仕事にならない。強引にねじ込んでハンドキャリーしてもらった。機体は3機だけれど動けるのは1機になってしまっている。

マウントはかなり大きいし重い。手に提げて運べるものではない。入社したて童顔の可愛い整備士が、襷掛けに背負ってヘリポートに現れた。眼鏡を掛けた丸顔の二宮金次郎みたいである。

クルーは6人いたがホリチャンは入社したばかりで面識がない。秋田も初めてなら八郎潟も初めてだろう。それなのにいきなり不細工な金具を背負わされ、大変な会社に就職したと後悔しているだろう。くるくるよく動く目が純真そのものだ。
「ミヤタさんはどちらですか?」

ヘリコプターは散布にチャーターされたのではない。僕の名で、除草そのものを請け負っている。操縦士より請負士だ。僕はゴム長を履き、ムギワラ帽子をかぶり、上半身は裸、荒縄でズボンを縛っていた。
「オレだ」

ホリチャンの目が点になった。パイロットのイメージを壊してゴメン。


スギさんの荷物 ■01.23.2003

ヘリコプター・パイロットにとって気付整備士はパートナーである。旅を仕事と考えれば、むしろ同行伴侶といったほうがいい。特に小型機で、1対1で旅をすれば、まさに運命を託した唯一の相手である。一緒に飯を食い、酒を飲み、笑い泣き、苦楽を共にする。

空の一角が腐り、かすかに死の匂いがしてきたときは、無心に外を眺めている整備士を殺してはならぬと思う。地上のその彼が、腕を水平に伸ばし親指を立て、離陸しても良いぞと合図するなら、心おきなく大地を後にもできる。

本当に相棒と呼びたい整備士一人を挙げるとすれば、それはスギさんである。十ほど年上で、背は僕くらいだからチビだ。やたら色が黒くて眼鏡を掛けている。笑って歯が出たときやっと裏表が分かる。

僕がカケダシの操縦士だった頃、ためらうことなくどんな飛行にも一緒に飛んでくれ、あげく頼りない僕を所長として助けてくれた。正直言って円満な人格者ではなく、むしろ敵が多い人だったのに、僕とは馬鹿にウマが合ったのである。

秋田に転勤になった。小さな運航所にはたった1機のベル47G2、操縦士は僕だけで整備士はスギさんだけ。朝から晩まで顔を合わせていると、いくら気が合っても不機嫌なときもある。しばらくすると必ずスギさんが声を出し、「何を怒ってるんだよ」

それでおしまいだ。きっかけはいつも彼が作る。女房役に徹しようとしている気持ちが有り難い。最初に声を出すのは勇気が要るのだ。

北海道を縄張りとし、毎月のように北海道に飛んだ。スギさんが一緒である。「これにするか?」スギさんがジョッキを握る手つきである。猪口を摘む手つき、コーヒーカップを持ち上げる手つき、3通りのハンドシグナルがあって、答えもハンドシグナルだ。

手つきで行き先が自動的に決まるのがおかしい。ビールならサッポロ直営店。ただし狸小路のこともある。猪口なら狸小路。コーヒーは薄野。なんだ同じような所じゃないか。

スギさんはコーヒーにうるさく、モカのストレートしか飲まない。いつの間にか僕も砂糖入りだがモカばかり飲むようになった。もっとも今ではインスタントでも不服はないが、ミルクはどうしても入れられない。

冬、出張が長くなってもスギさんの荷物は小さなボストンバッグだけ。それもそのはずスギさんには別の大きな荷物があった。不細工な暖房機である。機体の試運転が終わるとスギさんは、大急ぎで暖房機を背負いボストンバグを下げて先行する。

北海道は寒い。時にはマイナス20度にもなる。こうなるとベル47のレシプロエンジンは全く言うこと聞かず、頑固にスタートを拒否する。大型バス用の暖房機で、ややしばらくエンジンを暖めないと機嫌を損なうのだ。

仕事は電発の十勝幹線を追って東へ東へと飛ぶ。途中で一泊するから暖房機もヘリコプターを追っていく。縦横50cm、長さ1mほどの暖房機を、特製のリュックサックで背負い汽車でスギさんは僕を追う。

ある朝暖房機をかけエンジンを暖めた。ところは糠平(ヌカビラ)、大雪の山懐に囲まれた十勝幹線の終点である。

エンジンが掛からない。暖め方が不十分だったはずはない。起きて顔を洗う前に暖房機をかけ、朝食と出発の準備をする間ずっと暖め続けたのだ。もうじき顧客のパトマンが来るというにどうしたわけだ。「故障かも知れない」

思い当たることがあった。昨日本別(ホンベツ)まで往復した帰り、一瞬だが変な音がした。その後なんともなかったが、気になるので着陸した後マグチェックをしてみたのだ。普通こんなことはやらない。だが異常はなかった。「トラブル・シューティングをしてみよう」

パトマンは予定通りに離陸できないから不機嫌だ。しかし時間は経っても故障の原因が分からない。最後にまさかと右マグネトを外して分解したら驚いた。インパルス・カップリングの歯車が欠けて丸坊主だ。これではエンジンが掛かるはずはない。

昨日マグチェックでは不具合は無かった。エンジンを止めるまでのわずか十数秒で丸坊主になったのだろう。運命を感じた。辞を低くしてパトマンに説明し、今日の予定を中止してもらったが、明日は飛べるようにしなければならない。本社に連絡だ。

旅館にとって返してまた驚いた。北海道の帰りの旅客機が東京湾に墜ちたという。全員死亡と新聞にある。きっと昨日の北海道には、サンリンボウが飛んでいたに違いない。

スギさんは帯広までマグネトを受け取りに行き、零下20度の野外で、夜遅くまでかかって組み立てた。

次の朝に離陸したら、リュックを背負ったスギさんが糠平の駅で手を振っている。白い歯が屈託無く笑っていた。


創業の師弟 ■01.06.2003

イワサキさんは海軍の陸攻乗りである。96式陸攻で渡洋爆撃を飛び、マレー沖海戦では巡洋艦レパルスに1番槍をつけた白井中隊第2編隊2番機である。

弾着波紋の中を疾走するレパルスの写真は有名であるが、あの中の1発はイワサキさんの爆弾だ。1航過目に左エンジンのオイルタンクが被弾し、編隊を離れて帰投している。エンジンは着地の瞬間まで回っていて、着陸の瞬間に停止したのが劇的だ。

1式陸攻でガダルカナルも飛んでいれば、夜間胴体着陸もした。永く大西滝次郎提督の機長でもあり、ドラマチックな空を経験された。

戦後は海上自衛隊でSNJ(T-6)の教官をしておられた。だから教育は慣れているが、民間では僕を担当することになって、いまさら教育証明を取らねばならない。イワサキさんにすれば邪魔くさいことであったろう。僕にとっても妙だ。自分の訓練の前に教官の訓練を手伝わねばならない。

どうせ教育するなら2人のほうが良い。ちょうどそこにスウさんがいた。スウさんはT-33まで飛んでいる。

いよいよスウさんと僕がイワサキさんに教わることになった。ところが訓練機には無線がない。インターホンも無いわけで、さてどうするかと思案してたら「伝声管を作ればいい」とおっしゃる。「伝声管!」、僕とスウさんは思わず顔を見合わせた。

海軍陸攻乗りが時空に囚われず、自由に発想されるではないか。すぐ近所の金物屋に行き、アルミニウムのジョウゴとゴムホースを買ってきて3人で伝声管を作った。

ヘリコプター業界民間最初の自社養成である。システムも機材もあったものではない。けれども3人で工夫して、だからどんな難関も苦にはならなかった。教科書も訓練生の手製、訓練用のヘリポートを自分たちで探し、スクエア・パターンも自分たちで描いた。

団結は力である。もしイワサキさんが静浜のアシスタント・コマンダーのように構えたら、訓練は悲惨なものになっただろう。

イワサキさんはヘリポートの近所に住んでおられたから、仕事が終わって飲み過ぎたりすれば、転がり込んでたちまち奥さんを煩わせることになった。師弟か居候か分からぬ有り様である。いまでも年に何回かお宅にお邪魔して3人で飲む。

ある日ヘリポートでホバリングしているとき、ヘリコイルが抜けた。ヘリコイルとはスパーク・プラグを受けるシリンダーのネジで、だからプラグがスッ飛ぶとプラグは抜け排気はモロに発散され、もの凄い音がした。

イワサキさんは腕を組んでおられたが電光石火で操縦桿をとり、まったく機体を揺らさずゆっくり着陸させたのである。音よりその方がよほど驚いた。弾雨をくぐった男というのは無条件で違う。

試験が終わってライセンスト・パイロットになった後も、しばらく応用訓練があった。バックワード・テイクオフ、ヴァーティカル・オートロテーション、パワーセットリング、ハイフライト、ヒヨコが世に出てまごつかぬよう熱心に教えて下さった。僕には基本訓練より、こっちの方が遙かに印象的である。

何であったのか忘れたが、ひどい失敗をやらかしたとき、「弟子の及ばざるは師の過ちなり」、そうおっしゃって不肖の訓練生に頭を下げられた。これにはほんとう心底参った。

ヘリコプターはまだ神話の時代だった。イワサキさんは飛行機の権威者ではあったがヘリコプターについては初心者としての謙虚さがあった。空はどういう心構えで飛ぶかについて厳しかったが、技法についてはビックリするほど柔軟な受け止め方をした。不足を創意で補う速さは感銘的である。

ヘリコイルが抜けたときの自若たる態度は、男が何たるかを教えてくれた。もう理屈ではない世界がそこにはある。

創業期の教育は白紙で作れるものだ。どんな絵も描けるだろう。いいかげんに流すこともできるはずだが、そうはさせないのが創業期の教育だと思う。しかし師が教育の原点を知っていることは偶然である。その偶然に出会えたことを感謝する。僕はこれ以上ない人に出会ったと思う。

どういうわけかイワサキさんもモノを書く。スエジロさんのように押し込んではこないが、モノを書く。しかも店頭に並ぶようなモノを書かれる。引きずられて僕も駄文を書く羽目になった。何の因果なのだろう。