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手袋
この世のものすべては零に帰する。あえて1があるとすれば、それは師弟であろう。誰かそんなこと言った人がいた。師弟とはそういうものであった。
しかし師弟は遠くなり、今は死語に等しい。そしてたぶん、遠くなることと学級崩壊は関係があるだろうと思っている。「人」を教えられない人が「師」であるはずがないからだ。
コクピットで眺める人間の風景で、声もあり感情もあるのが、教える者と教わる者の姿である。空に「待った」はないから、そこにあるのは最も生々しい人間の風景だ。言葉や操縦桿の動き、ホットマイクなら息づかいやつぶやきまでが、飾る暇もなく相手の心に食い込んでいく。
僕は8年半を教官として過ごした。教わる立場と教える立場を合わせると10年になる。
メーネさんが防府に着任してきたとき、僕らの飛行訓練は始まっていた。そして受け持ったのが僕とテツちゃんだ。僕らはヨーイドンで、いきなり教官が代わる運命に遭遇した。
メーネさんは学校の先輩である。メーネさんは知らないだろうが、まだ学生のじぶん僕には思い出があった。
学校のPX(Post Exchange)でラーメンを注文して待っているときに、賑やかにメーネさんが入ってきてラーメンを注文した。しばらくしてラーメンが上がったのだが、店の女の子はいそいそとメーネさんのところに持っていく。先に注文した僕など眼中にない。メーネさんはやたら女の子にモテたのである。
4年生になって築城での部隊実習があった。ランプでT-33の発進を見学したとき訓練生はメーネさんで、そのときの厳しい眼差しを覚えている。メーネさんはエンジンをスタートさせ、ランプアウトして行った。これまたやたらカッコイイ。
メーネさんはヤンチャ坊主であった。F-86で翼にシワを寄せたりフラットタイヤをしたり、手が付けられない。しばらく教官でもやって頭を冷やして来いと防府に送られてきたのである。
たぶん「一番出来の悪いヤツラを受け持たせて頂きたい」そう頼んだのに違いない。そして僕らの教官である。
いくらもしないうちに同期にソロ(単独飛行)とエリミネート(罷免)が出始めた。しかし僕らふたりにはプリソロ・チェックの声も掛からない。腕白坊主でもメーネさんはPIS(教官課程)を終ったばかりだから、自分ではソロに出せない。誰か資格のある教官が乗って、判断を待たねばならないのだ。
もうクラスはケリがついてアウトかセーフ、宙ぶらりんはいなくなったのに、僕とテツちゃんはまだ、離着陸でうろうろしている。
「なんだかヘンだぜ」と僕。
「そんなら教官に聴こう」とテツちゃん。
土曜日の午後、僕とテツちゃんはウイスキーをぶらさげてBOQ(独身士官寮)に掛合に行った。しかしメーネさん、「おまえたちの考えることではない!」と一喝、さっさと自分の酒を出して酒盛りになった。持っていった僕らの酒でないのが憎いが、僕もテツちゃんも調子よく飲んでそれでしまいである。
みんな次の課程に進んでいるというのに、僕とテツちゃんは相変わらず離着陸である。しばらくしてやっとコマンダーが乗ってくれた。プリソロ・チェックと張り切ったのだが、3回の着陸は3回ともバウンスして情けないことおびただしい。こりゃあ駄目だ。
次の日メーネさんが渋い顔で後席に乗り込む。僕ははなはだ意気が揚がらない。いつものように飛び、いつものようにランプインした。
しょんぼり冷気運転をしていると様子が変だ。思わず振り返るとメーネさんが後席に落下傘を縛り付けている。怒ったような顔で肩を叩き、ひとこと「行って来い」。
その年の納め飛行は僕らの編隊飛行であった。編隊の課程が終ったばかりだから、きっとそうなったのだろう。もちろん全機教官が乗っている。
4つのダイヤモンド編隊16機、僕にとって最初で最後の大編隊だった。しかも僕のポジションは第2ダイヤモンドの2番機、前にも後ろにも、右にも左にも僚機が飛んでいる。
メーネさんは真新しい手袋していた。理由が分かったのは飛んでいるときである。
「持った方がよいのではないですか」
隣の機体の教官が声を掛けてきた。瀬戸内にあるとはいっても冬の防府は裏日本である。しかも山脈を越えてきた風が荒れている。その日も風が強かった。
メーネさんは風防のカマチを握っていて、操縦桿に手を添えていない宣言のため、真新しい手袋をしていたのだ。メーネさんは返事もしなければ僕にも何も言わない。最後まで無言でカマチを握っていた。
僕は教官に手を添えさせてはいけない。どんなことがあっても操縦桿に触らせてはいけないと思った。風に煽られ機体が沈み、咄嗟にパワーをくれてポジションを取り返す。僕は懸命に長機に付いていく。必死に長機に付いていく。何処を飛んでいるのか、傾いているのか、高度がどれだけか、最後まで知らなかった。知る必要もなかった。
フライトが終わって列線の中を、僕は教官と2人分の落下傘を背負い、真新しい手袋を見ながらメーネさんの後を黙って歩いた。
赤いインディアン■11.22.2002
遥かな昔、学生運動が盛んな時代があった。ヘリコプターは警官隊と衝突する学生の群を追って西走東奔した。神田周辺は日本のカルチェラタンなどといわれて、ヘリコプターが押っ取り刀で駆けつける本場であった。
▼破壊の時代
学生たちは至る所で荒れた。ある時は新宿で火炎瓶を投げつけゲバ棒を振るった。またある時は新橋である。警官隊は機動部隊を押し出し、散水車とジュラルミンの盾で戦う。
道路に対峙するのは興奮した両陣の若者である。片方は時代を変えたい理念に燃えた若者たちであり、片方は学校に行けなかった若者である。火炎が燃え上がり水が飛び、押しまくられて片方が算を乱して逃げる。路地を走る顔は見えないが、必死の感じがなぜかおかしい。
コクピットの向こうに見えるのは、爆音で消された無音の世界である。理念の闘争というより若い血の沸騰と見えた。東大に張り出された壁新聞の、「泣いてくれるなオッカサン」はもろにその情念を伝えている。だが機動隊の若者にすれば、自分たちとは違う、親のスネを囓っている好い身分がちゃらちゃら言いやがって、憤怒の情もあったろう。
ある時仕事が終わって電車で帰る途中、三田で騒動に巻き込まれた。乗換えで電車を降りたら拳ほどのツブテが飛んでくる。火炎瓶が火を噴く。僕は逃げまどいながら、つい笑い出してしまった。コクピットから見下ろしていた世界が歓声を上げ、怒声してうねる。足は必死こいているのに何てこった。
紛争のクライマックスは東大安田講堂の攻防であった。立てこもった学生たちを十重二十重に機動隊が囲み、放水して催涙弾を打ち込む。負けずに学生は火炎瓶を投げ、火と煙と、戦国の攻城戦さながらである。
取材のヘリコプターが20機ほど、駅馬車を襲うインディアンよろしく講堂の周りを飛び回っている。地上の興奮が伝わるのか、いつもより速度が速いし、列を乱して急降下していく機体もある。これはまったく油断が出来ない。
左目で他機を追い、右目でカメラと闘争を見ながら、僕も赤いインディアンである。何せ機体が赤いのだ。
腹の下を警視庁のベル204がよぎった。両脇のドアを開けて片側3人ずつ警官が座り、催涙弾を点火して講堂の学生に投げる。勇敢な学生が煙を上げる催涙弾に飛びかかり、涙にむせながら下の機動隊に投げ返す。
「なんだかヘリコプターは学生に弾を補給してるみたいだなあ」
長い時間の攻防があり、そして次第に抵抗が弱まり、ついに機動隊が講堂に突入した。屋上に機動隊員の姿が見えたときが落城である。いつしかヘリコプターも厳粛な気分になっていた。時代の節目が終わったと思った。
▼何を建設するのか
いつの時代でも、破壊に歓声を上げる輩はいる。主義も主張も口先にはあるが腹には無い。尊皇攘夷は念仏だ。時流に乗ってただ生理的快感が彼らを奔騰させる。
しかし何人かは明日が見えていて、高杉晋作も坂本竜馬も作るべき明日があって、今日の破壊を容認した。奇兵隊が奔り、海援隊は突き抜けてしまって建設に掛かっていた。
思えば学生運動は作るべき明日を見据えていたのだろうか。ろくに考えもせず、何も見えず、ただ破壊したのではないか。そんなことを思うときがある。
2000年の頃、17歳が薄気味の悪い事件を続発させた。知恵遅れの少年の生首を学校の門に掛けるとか、5歳の少女を人質にバスジャックするとか世の末を思わせた。
彼らはちょうど学生運動に没頭した世代の子供たちである。無責任に破壊した報いのようで暗澹とした。親の因果が子に報い。そんなおどろおどろとした想念が浮かぶ。
赤いインディアンは消えたが、歴史の連鎖はいつまでも続くのだろう。因果は巡る水車、泣いてくれるなオッカサン。
岩壁の若者■11.09.2002
レスキューが官公庁の専管になって久しい。しかし規則が変わったばかりの頃は、たまたま飛んでいるときに遭難者を見つけたとする。人命は全てに優先すると高邁な気持ちになると、後が厄介だった。航空局に呼びつけられ、いかなる権限でレスキューをしたのか追及される。人道的な興奮は萎み、良いことをしたはずなのにまるで犯罪者の気分だ。はなはだ情けないのだが、次に同じような局面ではつい見て見ぬフリをしたくなる。そうそう勇気ある人ばかりではない。この国、人命より官僚が強いのである。
▼鳥海山のレスキュー
まだレスキューが専管になる前の話だ。鳥海山秋田県側6合目か7合目にちょっとした広場がある。そこがヘリポートなのだが人垣ができていて着陸する場所はすぐ分かった。
冷気運転のあいだ顔を上げると、コクピットの向こうに人垣に混じって知った顔が笑っていた。トシカズ叔父ではないか。なんでこんなところに居るのだろう?
トシカズ叔父は女房の叔父で、殿様然とした雰囲気がある。事実3代前までは本荘藩家老の家系だ。そういうふうに育ったからだろう。あくせくしないとこが好きである。
「どうしてこんな所にいるのですか」
「いやぁうちの子がケガしてねぇ」
そういえば怪我人は女学生だった。叔父は高校の教師なのである。
鳥海山には夏でも雪がある。高校スキー部の夏休み合宿にはもってこいの場所であり、叔父のところの高校でも合宿していたのだろう。着陸したのは8月の半ばだった。
雪はあるがゲレンデの周囲はやっぱり夏で、裸の岩がごろごろしている。勢い余ると岩に激突する恐れは多いのだ。その女学生も岩に激突して人事不省に陥った。
ゲレンデからヘリポートまでスノーボードで運ぶのだが、狭い山道でスノーボードが岩や木に当たると怪我人がひどく痛がる。そのため時間が掛かって山の天気は一変した。それまで雲ひとつ無い空が俄かに雲に閉じ込められたのだ。やっと怪我人をヘリコプターに乗せたときは晴れているのが山頂だけとなった。
離陸して山を回る。樽の中を駆けるサーカスのオートバイみたいだ。雲のふちを回って次第に高度を取り、雲の上に出たときは本当にほっとした。積雲に夕日が当たって絵のようである。
▼一の倉沢のレスキュー
叔父の時の女学生は助けることができたが、行方不明の遭難捜索は心が重い。どうしためぐり合わせか、生きて見つけたことがないからだ。
晩秋の空が荒れて、一の倉沢で二人の若者が行方不明になった。大陸から優勢な寒気が流れ込み、5日も空は荒れに荒れた。依頼があって空が晴れるや土合から、待ちかねて赤いヘリコプターが谷川岳をよじ登った。
昨日とはうって変わって澄み切った青空である。風も穏やかで必死になることはないが、山は昨日までの吹雪が積もっていた。
捜すまでもなく二人は一の倉沢の岩壁にいた。ひとりはザイルを確保して足を岩にふんばり、静かに横たわっている。右手が不自然に曲がり、たぶん衝撃で折れたのだろう。
もうひとりはオーバーハングのザイルの先で、手足を垂れて動かない。
何があったのか、これからどうすればよいかはパイロットが立ち入ることではなかった。振り返ると同乗した二人の仲間と目が合い、黙って頷く。
ヘリコプターはなしようもなく麓の土合に沈んでいった。降りても遺族に話す言葉もない。こんな世の中でも、信義を守り通して死んだ若者がいる。
日本人の死生観では若者をどう言うのだろう。無駄に死んだのだろうか。いつも死と隣り合わせで生きてきて、墜落もしたし不時着もした。仲間には空で死んだものがそれなりに居る。なにがしかの覚悟が無いとこの商売はつとまらない。
空を飛びたいといったとき、周りの人はみな幼稚な願望だと笑った。もし墜落して死んだら、笑われたのだろうか。
サン・テクジュペリは「肉体が滅ぶことはたいして問題ではない」と言っている。死と隣り合わせに生きて、テクジュペリがなぜそう言ったかが分かる。精神が死ぬこと、人々との繋がりが消えることのほうがずっと意味がある。岸壁の若者が、友を確保して信義に死んだことを、無意味だと思うことは無い。
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