手を振る ■02.20/2002

「ヤンダヤンダは女のクセだよ嘘ダバ引パテみれ、五寸も引パレば二尺も寄て来てそれでもヤンダから」

秋田音頭の替え歌である。秋田音頭の替え歌には目を見張る歌が多い。文字にできない歌が多いが、男と女の本性を突いていて聴けば思わず絶句する。明るくておおらかで底抜けだ。ちっとも卑猥な気がしない。

▼逃げる犀

オスの犀がメスを見つけて近づく。するとメスは目ざとく見つけて逃げる。オスは小走りになりかなり本気で追いかける。メスはオスの速さにあわせて逃げる。

神様は意地悪だからオスはメスに追いつけないように設計した。オスはくたびれて足が遅くなりやがて立ち止まる。そうするとメスも立ち止まりオスを振り向く。

そうなのかと思ってオスが近づくとメスはまた走り出す。オスは夢中で追いかけるのだが追いつけない。諦めて立ち止まるとメスも立ち止まる。

もういちどオスは走り出す。メスは逃げる。これがえんえんと続き、頑張り通したオスだけが子孫を残すことができる。

オスがメスを選ぶのか、メスがオスを選ぶのか、どっちもどっちでたぶん議論は意味が無いのだろう。けれどボクはメスがオスを選ぶのだと思っている。鳥のオスが美しく着飾り、声を張り上げ、巣を作り、懸命にメスの気に入られようと努力するのはそのためだ。昆虫も似たようなものである。選択しているのは明らかにメスだ。

人間は高度な社会を作った。社会に秩序が要り、社会の複雑になっていく過程で戦いがあり選択が複雑になった。まず社会と社会、地域と地域の諍いがあり、その諍いに勝つことが条件になってオトコが先になった。選択権がオトコの手に渡った時代である。

人類が農業を発明してから永い。農業の蓄積が収奪の元になり、戦争がつきものになった。してみると人類の歴史は戦争の歴史で、オトコ逆転の歴史というわけだ。着飾るのはオンナの習性になり、いつしか逆転が本性のようになった。

しかしこれは無理がある。いつまでも殺し合いをやってはいられないから、平和な時代がやってきて、やっぱり選択権はオンナの手に返る。日本はたぐいまれな平和の国である。結婚できないオトコがたくさん出来るのはしかたがない。第2次世界大戦後、オンナとストッキングが強くなったと言われたが、平和の時代が来たぞという実感だったのだ。

オトコはオンナに選ばれるために、鳥のような涙ぐましい努力をしなければないけない。犀の選択基準はしんどいから、鳥の基準のほうが好ましい。キムタクとかナントカ、見栄えのいいオトコが持て囃されるのはいいことだ。

▼女の本性

スタムという除草剤があった。今でも生産されているかもしれない。選択性のホルモン移行型の液剤である。高価だがこれを撒くと稲は枯れずにヒエだけが枯れる。

ヒエはイネ科の植物だから稲が枯れずヒエだけが枯れるのは不思議でたまらなかった。農薬屋さんにしつこく聴いたが解らない。展着剤を入れて表面張力を無くし、植物によく吸収されるようにし、植物の体内にまんべんなくいきわたり云々。それなら稲だって同じだ。説明になっていない。

しかし撒けば稲は青々と五月の風に吹かれているのに、ヒエが黄色に果てている。百聞は一見にしかず、論より証拠で信じるよりしかたがない。

選択ねえ。神の摂理なのでしょうねえ。

八郎潟の実験農場でスタムを撒き、昼下がりの昭和町を帰ってくる。秋田の山河は初夏の光が溢れ、植えられたばかりの水田が初々しい。あちこちに田の草取りの人々が居る。

「やあやっていますね」。自称ヘリコプター空中百姓は御同業の親しみを込めて低空をかすめ、手を振りながら通りかかる。

両手に採った草を下げ、腰を伸ばすのは決まってオド(夫)だ。手を振るのにこたえて笑いながら草の手を振る。しかしアバ(妻)は顔も上げない。いくらか愛嬌のあるアバでも、腰をかがめたまま顔だけ向ける。むっすりと愛想の無い顔だ。追いかければきっと逃げるだろう。秋田音頭を思い出し、つい大声で笑い出してしまった。

「ヤートセ、ヨーイトナ」


久米の仙人 ■02.08/2002

よろず刹那的になり、世間一般考える時間軸は極端に短くなった。明治維新からさもなければ戦国時代に遡ればせいぜいだ。北条時宗のドラマがあったが酷いものだった。まるで鎌倉時代はわからない。しかし考古学が興味の対象になるし、NHKが「日本人はるかな旅」を放映すると、視聴率が20%近くなって満更でもない。とは言え、時間を進化論の長さで考えたりすると、変人のそしりは免れない。

▼性淘汰

ダーウィンはガラパコスで自然淘汰を着想してから20年間悩んだ。種の起源と進化論は、キリスト教の天地創造を否応なく否定してしまうからだ。敬虔なキリスト教徒だったダーウィンにしてみれば耐え難い苦痛である。

しかし若いウォレスが自然淘汰に気が付き、もはや悩んでいる余裕はなくなった。やむなく「種の起源」を世に発表したのだが、心配したとおり学界を揺るがす論争の種になり、教会は列火のごとく怒った。今でも認めぬ一派がいるのだから、当時の怒りは尋常ではない。もし社会的に認められ尊敬されもしていたダーウィンでなく、権威のないウォレスだったら進化論はまともに陽の目を見なかったろう。

ダーウィンとウォレスは進化の原動力を自然淘汰とした。しかし大きな違いがあった。性淘汰をどう評価したかということだ。ウオレスはあまり関心を示さなかったがダーウィンは評価した。自然淘汰の解釈について見解の相違があったのだろう。

オスがメスを選ぶのか、メスがオスを選ぶのか、ダーウィンはともかく僕はメスがオスを選ぶのだと思っている。カマキリやある種のダニの物語は、どうしても進化の中心はメスであるように思えるのだ。ライオンのハーレムだっていかにもオスが主体のように見えるが、選択しているのは明らかにメスだ。

ある日たくましい若いオスがハーレムのオスに挑戦する。メスたちはどちらが勝つか黙って見ている。勝者を選んでいるのだ。さっきまでのオスが負けても同情などしない。そろって勝者をハーレムの主にする。若いオスは元のオスの仔を全部噛み殺すが、メスたちはそれも止めない。そして新しいオスの仔を生む。非情でもなんでもなく、それがオスとメスに課された性淘汰の原則なのだ。

▼男の本性

低空というと、真っ先に思い出すコクピットからの光景がある。野面がいちめんの秋で、稲刈りの取材に行った。NHKである。

秋田といえば米どころだが、田沢湖の南斜面になだらかな荒れ地があって、そこに疎水を通して開墾をした。最初の刈り入れだ。

弥生式農業は水田を開く。日本の歴史は水田を開く歴史であり、その緩急が平和となり争乱となった。関東を開墾して武士が勃興し、越後を耕して宗門が武をはった。北海道の屯田もそう古いことではない。営々として二千年、もはや日本の何処にも開墾する場所はないと思っていたが、何と米どころの秋田に疎水が通り、初めての稲刈りだという。みずから空中百姓を名乗る僕は、仕事は別にしても是非見てみたい。

かくて今、高度100フィートをかすめながら構図になりそうな場面を捜している。隣のヨドさんがカメラを構えるから旋回に入れると、すぐ目を離して首を振る。埒があかない。一面黄金色の田で、あちらにもこちらにも稲刈る人がたくさんいて目移りがする。

しばらく飛んでたまたま夫婦と娘さんを見付けた。服装と刈る配置がいい、絵になりそうである。以心伝心ヨドさんも同時にカメラを構え、すかさず旋廻に入れた。

思った通り夫が最初に顔を上げて遠慮がちに手をふった。しばらくして妻も顔を上げた。ところが娘さんはなかなか顔を上げない。絵にならないではないか。

あまりしつこく回ったので、とうとう娘さんも顔を上げた。

いや驚いたのなんのって、あまりに美人なので思わず手元が狂った。旋廻がよたよたしたかもしれない。なるほど、久米の仙人さえ墜落したのはこういうわけか。進化論の大原則は仙人でも侵し難いのだなあ。

帰り道、フィルムを抜きながらヨドさん「美人でしたねえ」。


トド松の男たち ■02.02/2002


初夏の光に溢れ、稲が青々と伸びている。向こうの県道を乗用車が行った。

僕はハーネスをつなぎベルトを締め、呪文を唱えながら点検に入る。スイッチに触れ、ブレーカーを押し込んで計器を一瞥する。普段の表情だ。顔を上げて整備士を見る。

 「スイッチ・オン」 「スイッチ・オン」
 「クリアー」 「クリアー」
 「コンタクト」 「コンタクト」

スターターがカスタネットを鳴らしてエンジンが起動する。この瞬間が好きだ。タービン・エンジンのような持って回った勿体らしさがなく、潔いレシプロがいい。もしもプロペラが付いていたら、2枚が勢いよく光る円盤になる。風がどっと開いた風防に押し寄せ、飛行服をはためかせる。

僕は引き締まった整備士の目を見る。相変わらず稲は青いし県道を行く自転車も見えるが、確実に風景の光度が変わったと感じる。さっきまで聞こえていた生活の音は、エンジンの咆哮に遮られてしまったし、機体を揺さぶる振動は、すべてをコクピットの額縁の風景にする。

後ずさりながら整備士が親指を立て、僕は頷いてピッチレバーを上げる。稲が放射状に靡き、僕は大地を離れた。

▼1,500フィート

雲もいいが僕は大地の方が好きだ。雲に近いより大地に近い方を飛びたい。そこに人間がいるからだ。さしずめサンテクッスなら人間の土地というだろう。

大地から人間の息吹が感じられる最後の高度が1,500フィートである。もし飛ぶのが1,000フィートだとすると、道路を走る車があり歩く人も見える。夏の日差しが強ければ日傘が通り想像をかき立てる。たぶん傘の陰は美人に違いない。

こんなこともあった。高度1,000フィートで飛んでいたら風防に雨があたる。晴れているのに変だと下を見たら、道行く人は傘をさしていない。慌てる風もないから地上では降っていないのだ。わずか300メートルで違うのが楽しい。これも狐の嫁入りというのかなあ。

あるとき自動車たちが一斉に止まり、家から人が飛び出してきた。何のことか分からなかったが、すぐ地震だろうと思った。はたせるかな空港に降りて聞くと、震度4の大揺れがあったそうだ。

1,000フィートなら海の船は走っている。蹴立てる波が見えるし背の背に揺れてもいる。時間や目指す方を見れば、水揚げに急いでいるのだろう。「大漁かな」と思う。

それが3,000フィートなら八字に伸びる水尾の頂点に船がいて動かない。波も船も、海に印刷された影絵のようだ。渚の白波も岸を彩るレースとなる。

屋根は地域を物語る。瀬戸内の町々は歴史と蓄積された富を感じた。もちろん貧しい屋根の地方もある。今でこそ藁屋根は少なくなったが、かつて東北には忍従の歴史を感じる村々があった。

低空で飛ぶと屋根によしみを感じたりもするが、そこで出くわす人間がいる。

▼木に生る男たち

コクピットから見た人間で、最も印象的なのは十勝岳の頂上近くでトド松に生っていた男たちである。生っているというのは妙な表現だが、もうこれしか言いようがない。

十勝岳の裏側、中腹にロボット雨量計を設置する仕事があった。輸送の量は少なく、機種はベル47-KH4であった。

地図に丸を付け、このあたりのどこでもいいから材料の資材を運んでくれというのである。ピンポイントで運ぶのが腕の見せどころで、センチの単位の要求をされたりもしたが、このあたりなら何処でもよいといわれて途方に暮れた。アバウトもいいところ、誇りが傷つく。押し問答、暖簾に腕押し、こんにゃく問答‥‥面倒になって飛ぶことにした。

ところがである。一面が笹だ。フックを切り離して上空を旋廻したら、笹に呑み込まれて今下ろした荷物が見えない。焦った。その気で捜せばコクピットからはかろうじて分かるが、笹を掻き分けて見つかるはずはないだろう。笹は丈が3メートル近くあるのだ。歩くのだって容易ではない。

ヘリポートにとって返ってエンジンを止めた。責任者に説明したら、やっと事の重大さに気が付いて、さあ大変である。慌てて屈強な男たちを選び、懸命に山を登りだした。道なき道を行くのである。たっぷり時間をやりたいのだが、今度はこっちがさっきの場所がわからなくなる。エンジンを掛けて次の荷物を吊った。

爆音が近づくと男たちが松に登る。ヘリコプターの方向を見定めると、すかさず笹の中を歩く。僕はさっきの場所を探し、旋廻して見定め、なるべく笹を押し分けるように下ろす。

また荷物を吊って上昇していくと、意外な方向の松に男たちが生っている。しかたがない僕は松に行き、指差し方向を教え、場所を探して下ろす。繰り返していくと、男たちはだんだん荷物に近づき、夕方にはとうとう荷物の場所で手を挙げていた。

ほんとう、コクピットの向こうに男たちが生っていた。