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第1部
「俣二会だより」の編集長急死
2002年2月4日、「俣二会だより」の編集長として人望の厚い小中谷忠夫君が急逝した。大動脈瘤破裂によるものであった。
「転ぶな、カゼひくな、義理を欠け」の老人養生訓のどこを欠いたのかな。私は彼の亡くなる前年末、新宿で会った。「陸軍中野学校史」を中心に、彼のご支援を受けたときである。ビールでも‥‥というところだったが、ミツ豆で別れた。何が悪かったのかな。後ろ姿の足どりも重かった。
「中野は語らず」の伝統の下、中野出身者は一切語らず、と。とくに手柄話は禁句となっているが、もともとは執念の凄じさを物語るもので、中野の同志的結合の堅さを伝えている。
戦後、陸軍中野学校ってナンダ? という問いに、適切な回答が必要となってきたが、私に一つの思い出がある。まだ息子が小学生のころ、木更津の基地祭へ出掛けた。立食パーティのとき、司令に「私は陸軍中野学校出身の少尉だが」と名乗ったところ、すぐ情報担当の中尉を呼んで、「大先輩を大事にもてなすように」と指示を与えた。うれしかった。
私は、こういうこともあるんだナと感心して、C-1の試乗を楽しんだ。中野の土壌は生きているんだなァと思った。
一方、小中谷編集長を失った「俣二だより」は持田、山田両君が仕上げ、翌年回わしで出版した。そして、平成15年には会員全員が80歳を超え、平成16年は発足30年の節目に当たる。どの辺で解散するか、リフォームするか、正念場を迎えてきた。
俣二会を解散し、「俣二だより」を廃刊する適当な時機というものがあるのか、ないのか。人一倍活躍した編集長の死に当たって、少し考えてみたい。
第2部
日本的レジスタンスの芽生え
もともと陸軍中野学校は時代の要請、戦争の多様化から、歴史的には「後方勤務要員養成所」という名称のもとに組織化された。昭和12年ごろから具体化し、昭和13(1938)年2月発足した。
後方とは正規の歩兵部隊を中心とした白兵戦と異なり、後方にあって諜報、宣伝、謀略、防諜の秘術を尽くして戦う形態をいうもので、その要員養成も、初期は「秘密戦」向きのスパイ戦士の養成から、ゲリラ戦要員の養成へと重点を移していった。
昭和12〜13年となると一般住民の支持を受けて、小部隊による待ち伏せ、奇襲、夜襲など変則的な戦闘形式が主眼とされた。
その後、欧州戦線において、ナチス・ドイツの占領下にあったフランス国民が対独抵抗運動を拡大して、1944年8月にはパリを解放、民衆によるゲリラ作戦の勝利を収めた。いわゆるレジスタンスresistanceである。侵略軍に対する民衆と、一部軍隊による強化された抵抗運動である。
これをわが国でも米軍の日本本土上陸作戦の展開前に整備しようとする構想を打ち出し、中野学校では本校と別に、静岡県二俣町(磐田郡)に分校をつくった。天竜川が二俣にわかれるところ、河原が広く、爆薬演習にはもってこいの地形であった。
開所式は昭和19年9月1日、見習士官228名が第1期生として入校。ゲリラ戦幹部として3か月の短期教育を受けた。任地はフィリピン、インドネシア、仏印、台湾、沖縄その他各軍司令部であったが、私たちの第2期生は募集方法を変えて、昭和20年1月入校式を行った。
もう終戦の年である。200名から成る若い見習士官。それも判断力と柔軟性を持った人材といえば、そう簡単に集めることはできない。そこで満州、北支を含めた全国の予備士官学校のうち、野戦環境の中にある石門(河北省石家荘)の教育隊にマトをしぼった。8個中隊の中隊長と区隊長が予備選抜を行い、候補者をしぼった。そこへ中野学校本部の高級副官坂口裕中佐一行が石門へやってきて採用者を即決した。
こうして、石門出身170名、騎兵学校出身30名、計200名が選ばれた。任地は支那派遣軍総司令部28名、台湾25名に集中的に配備され、あと関東軍4、朝鮮軍19、大本営7、その他内地の各軍司令部138名という配属となった。
すでに正規軍よりゲリラ軍が主体となる要員養成方針が打ち出され、私たちも南京から漢口へ派遣され、現地部隊の司令部も「ゲリラ隊の中野出身者」として受け入れ体制を整備していった。
要するに日本陸軍は鉄帽と38式歩兵銃で表徴された時代から、レジスタンスまがいの抵抗運動に大きく転回していったのである。
第3部
興廃の瀬戸ぎわ俣二会
「俣二会」も最盛期は会員80名を超え、第1回総会1976(昭和51)年1月から2002(平成14)年6月第28回まで続いた。そこへ、名編集長の急死と会員全員の80歳オーバーという現実から、解散問題が浮上してきた。
石門会は同期生約2,000人。専門分野が8中隊に分かれ、私は連隊通信(連隊長と大隊長間の通信連絡を担当する)の第8中隊で、同じ中隊から何人か中野へ進学したが、中隊別の同窓会は育たなかった。
そんな環境で、「俣二会」はよく育ったものだと思う。「陸軍中野学校校友会」のバックがしっかりしていたことと、中野の教育期間が3か月としても身にしみていたといえよう。
いずれにしても遊撃戦士は孤独である。任地が東京なら、まず東京師団。どこへ行っても市町村長から師団司令部、学校長などと連絡会議を持ち、青年団と手を組み、その土地の文化や歴史、地形を頭に入れて、遊撃戦に備える。それも上陸地点をマークして、布石する。
日本国内の重要地点に展開することから、外地に及ぶ、台湾中部の南投。中国中部の要衝漢口は中野の大先輩坂口中佐、小路少佐を長として、新たな部隊編成が試みられ、新たな戦局に対処していった。
ここで注目したいのは、正規の編成による部隊配置とは別に、少人数の遊撃隊組織が地元住民と組んで、新展開をみせようとしたところで終戦となった。
それだけに、各遊撃隊の結成がどのように展開していったか、どれだけ個性を発揮したものか。地元民との談合から計画など埋れたままの話も多いと思う。栄光の終末を迎えるために、これらの話題を発掘したいものだ。
第4部
まさに重慶をつかんとす
昭和19年になると南京の支那派遣軍総司令部は漢口に戦闘指揮所を前進させ、重慶をも衝かんとする勢いとなり、同年8月には第6方面軍(6HA)を漢口に開設した。
司令官は岡村寧次大将、参謀部2課には岡田大佐。西岡中佐の猛者がそろい、中野出身者の存在がひときわ目立っていた。
11月となると、岡村大将が総司令官に転じ、後任に岡部直三郎大将が就任した。第6方面軍として、独自の遊撃戦要員を教育し、その部隊を活用する隊長として、中野の先輩(1乙)小路政雄少佐が、これに当たった。また水落竜雄少佐(2乙)や陶浪伍長などサムライがそろっていて、私たち新米見習士官を喜ばせた。
ただ昭和20年3月の命令で、急ぎはせ参じたが部隊新設に間に合わず涙をのんだ。
この独自の遊撃戦要員の教育には、敵捕虜再教育を含む構想が含まれていて、重慶に潜入し、山岳テロを展開しようという野心に満ちたものであった。
私たちがどこまで出来るかわからないが、空軍による爆撃と、重慶攻略の正面作戦が何回も繰り返されてきたことは、最近の対イラクの米軍作戦と似たものとなっている。
われわれが作戦には間に合わなかったけれど、「現地では中野が本格的に遊撃戦に注力してくれるようになった」と非力のわれらを歓迎し、力づけてくれた。
また南昌機関長に前田大尉。長沙機関長に宗宮大尉が就任。杯をかわして体験談に胸躍らせた収穫は大きい。武昌の機関も充実し、第11軍の中野出身者も集まり、意気軒昴のものがあった。
そして、漢口市内のフランス人住宅に居住し、情報の収集、中国語や中国の生活文化の研修に励んだ。やがて在華空軍中心に米軍装備の強化が活発化し、われわれも北支那方面軍司令部に配属となって移動していった。
第5部
伝統精神の光は失せない
全国的な中野校友会は2年後に創立50周年記念を迎える。これまでも名簿の作成、校史の編集、留魂碑の建立などの事業を消化してきた。しかし、全国会員は670名(平成14年9月交友会誌)にまで減少し、平均年齢は80歳を超えようとしている。校友会会誌には校友会解散ないしは改革の時期接近を訴えている。
俣二会の小中谷忠夫氏の急逝は同期生を驚かせたが、平成13年7月の末次一郎氏の他界は俣一会の会員だけでなく、世界の政治家を驚かせた。沖縄返還に続いて、北方領土問題には、なくてはならぬ執念の持ち主で、引き揚げ者への奉仕から青年海外協力隊の創設など、安全保障問題研究会代表としての功績は数え切れない。
また俣二会には山田宗敏師が健在である。禅文化研究所所長として、京都紫野大徳寺の真珠庵庵主として知られている。戦後、朝日新聞の中国特派員として活躍した大久保任晴(俣二会)も忘れられない存在だ。有名無名の人物をかかえ、中野の伝統精神の光は失せない。 |