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著者は1959年防衛大学を卒業した。専攻は航空工学である。主任教授は村上尭先生。先生は京都帝国大学で地球物理を専攻され、東京帝国大学で航空工学を修められた。東京瓦斯電気工業の主任設計者でもあられた。
最初の授業で「用兵者の航空工学」を要求された。太平洋戦争で、いかに用兵者が技術的に愚かであったか、身に染みての発言であったのだと思う。そして「自由に発想」することを力説された。とくに先生が言われた「数学は自由なり」は好きな言葉である。その時以来「使う者の視点」と「囚われないこと」は生涯のバックボーンになった。
初めて乗った飛行機は、ビーチクラフトのT-34Aメンター。エンジンはコンチネンタルO-470、空冷水平対向4気筒の225馬力。3舵の調和した素直な基本練習機であった。吹流しをつけての初ソロの感激は、忘れられない。場所は防府で飛行時間120時間。
次が静浜でノースアメリカンT-6テキサン。尾輪式で翼型はクラークY、後部胴体はクロムモリブデン鋼パイプのトラスにアルミの外皮。素直には飛んでくれず、油断もスキもない。男の味がして、空は手強いと教えてくれた飛行機中の飛行機だ。
そしてロッキードT-33Aシューティングスター。原型名はTF-80C。F-80Cより3フィート2.5インチ長くなって性能が向上した。機首の銃口には封がしてあった。操縦席にうずくまり、加圧酸素を吸いながら、群青の空を見上げて「用兵の航空工学」を考えていた。
次に乗ったのがどういうわけか、ヘリコプターのベル47G。出会ったのが小林末次郎氏。元航空士官学校の教官で司令部偵察機に乗り、94偵、97偵、100偵の操縦士であられた。操縦を教わることはなかったが、やたら鍛えられ、会えば必ず10年後の予測を言わされた。航空工学とオペレーション・リサーチを復習し、学生時代よりも勉強した。鬼のような顔を粉砕したかったのである。以来「機種選定」はひそかな本業になった。
ベル47はG型から始まって、G-2、G-2A、G-3B-KH4、G-4に乗った。最初のタービン・ヘリコプターはシュドエビエーションのSE3130アルエト。そしてベル204Bは、傑作機である。
こうして乗った機種はさほどに多くはないけれども、仕事の種類は多い。ヘリコプターで考えつく飛行はすべてやった。
報道取材、写真撮影、調査飛行、送電線巡視。農薬散布は病虫害防除から除草剤撒布、野鼠駆除、山林緑化、藩種、施肥もある。資材輸送は鉄塔、生コンクリート、枠材、ユンボ、ブルドーザー。ビールもプロパンも便所もあった。電柱立て込み、継塔、神社まで運んだ。遭難捜索に患者輸送。海上油田の人員輸送では雨でも雪でも夜でも飛んだ。遊覧飛行はひたすら忍耐である。
だがもしヘリコプターの飛行で、ひそかに誇るものがるとすれば、それは「安全」と「訓練」にかけた時間であろう。「機種選定」もそうだが、航空工学を専攻した記憶がなければ、かなわぬことだったと思う。
※別冊航空情報「透視図探検」酣燈社刊より(文章はご本人による執筆です) |