宮田豊昭プロフィール

1935年9月3日東京生まれ。1959年防衛大学航空工学科卒業。航空自衛隊3尉任官を経て、朝日ヘリコプター鰍ノ入社。ヘリコプターの操縦に携わり、1985年朝日航洋且謦役、87年常務取締役(航空事業本部長)、潟Gアロスポーツ・プロモーションズ社長、樺n域航空総合研究所顧問を経て、1998年日本技研顧問。 2004年1月1日肝臓ガンのため死去。享年68歳。

主な著書『透視図探検―祖国の運命を担った13の戦闘機』(酣燈社)、『ヘリコプター物語』(無明舎出版)、共著『マルチメディア航空機図鑑』(アスキー出版局)ほか多数。

航空の現代「追悼・宮田豊昭文藻」

●宮田豊昭氏とはこんなヒト●

農薬散布や野鼠駆除、鉄塔・生コン・ブルドーザー、遭難捜査に患者の輸送、ヘリで運べぬものはない。

しかし、一番誇れるものは「安全と訓練に費やした時間だ」と氏は語る。

ヘリコプター操縦士を生業とした男
違いがわかる「コクピットの達人」。


宮田豊昭
Toyoaki Miyata

者は1959年防衛大学を卒業した。専攻は航空工学である。主任教授は村上尭先生。先生は京都帝国大学で地球物理を専攻され、東京帝国大学で航空工学を修められた。東京瓦斯電気工業の主任設計者でもあられた。

初の授業で「用兵者の航空工学」を要求された。太平洋戦争で、いかに用兵者が技術的に愚かであったか、身に染みての発言であったのだと思う。そして「自由に発想」することを力説された。とくに先生が言われた「数学は自由なり」は好きな言葉である。その時以来「使う者の視点」と「囚われないこと」は生涯のバックボーンになった。

めて乗った飛行機は、ビーチクラフトのT-34Aメンター。エンジンはコンチネンタルO-470、空冷水平対向4気筒の225馬力。3舵の調和した素直な基本練習機であった。吹流しをつけての初ソロの感激は、忘れられない。場所は防府で飛行時間120時間。

が静浜でノースアメリカンT-6テキサン。尾輪式で翼型はクラークY、後部胴体はクロムモリブデン鋼パイプのトラスにアルミの外皮。素直には飛んでくれず、油断もスキもない。男の味がして、空は手強いと教えてくれた飛行機中の飛行機だ。

してロッキードT-33Aシューティングスター。原型名はTF-80C。F-80Cより3フィート2.5インチ長くなって性能が向上した。機首の銃口には封がしてあった。操縦席にうずくまり、加圧酸素を吸いながら、群青の空を見上げて「用兵の航空工学」を考えていた。

に乗ったのがどういうわけか、ヘリコプターのベル47G。出会ったのが小林末次郎氏。元航空士官学校の教官で司令部偵察機に乗り、94偵、97偵、100偵の操縦士であられた。操縦を教わることはなかったが、やたら鍛えられ、会えば必ず10年後の予測を言わされた。航空工学とオペレーション・リサーチを復習し、学生時代よりも勉強した。鬼のような顔を粉砕したかったのである。以来「機種選定」はひそかな本業になった。

ル47はG型から始まって、G-2、G-2A、G-3B-KH4、G-4に乗った。最初のタービン・ヘリコプターはシュドエビエーションのSE3130アルエト。そしてベル204Bは、傑作機である。

うして乗った機種はさほどに多くはないけれども、仕事の種類は多い。ヘリコプターで考えつく飛行はすべてやった。

道取材、写真撮影、調査飛行、送電線巡視。農薬散布は病虫害防除から除草剤撒布、野鼠駆除、山林緑化、藩種、施肥もある。資材輸送は鉄塔、生コンクリート、枠材、ユンボ、ブルドーザー。ビールもプロパンも便所もあった。電柱立て込み、継塔、神社まで運んだ。遭難捜索に患者輸送。海上油田の人員輸送では雨でも雪でも夜でも飛んだ。遊覧飛行はひたすら忍耐である。

がもしヘリコプターの飛行で、ひそかに誇るものがるとすれば、それは「安全」と「訓練」にかけた時間であろう。「機種選定」もそうだが、航空工学を専攻した記憶がなければ、かなわぬことだったと思う。

※別冊航空情報「透視図探検」酣燈社刊より(文章はご本人による執筆です)