マン・アンド・マシーン/01
text : Toyoaki Miyata
マン・アンド・マシーンという言葉にひそかな反感がある。使われるときの多くが航空事故のときであり、そのときのマンはパイロットを意味する。ひがみかもしれないが、マン・アンド・マシーンと聞くと、「マシーンについていけないパイロット」が筋書きのように感じて気分が悪い。

タイトルがマン・アンド・マシーンの本に描かれるマンは、ほとんどがマシーンを作るマンである。しかも障害を越えて苦闘するマンであり、多くの人が共感できるマンなのである。

たとえば、前間孝則氏の「マン・マシーン・システム 昭和伝説」は感動的な本だ。青春を飛行機とともに過ごした男たちが、敗戦でやむなく自動車に転向し、世界一にしていく技術魂の物語である。
マイナスのイメージのマンとプラスのイメージのマンがいて、マシーンを挟んで断絶している。僕にはこの断絶が気にくわない。

マン・マシーンはマン・マシーン・マンであらねばならない。マシーンの完成度が高くなれば、マシーンは限りなく膨張して、作り手のマンと使い手のマンが際だってくる。ハイテク機の事故が問題になるとき、使い手を無視する傲岸な作り手を思ってしまうのはそのためだろう。

厄介なことに、作り手を支援する立場のマンたちがいて、おおむね使い手のマンは無抵抗だ。事が起きればまず中立とは思えない。運航会社やパイロットを告発できても、メーカーには指一本も触れられないのが現実だ。


雑踏の会話
「あれは東洋中華の国と西洋中華の国の、エゴとエゴがぶつかって起きた事故ですよ」

仕事帰り、ニシさんと僕はサンシャイン通りを歩いている。名古屋中華航空事故のときのこと、とっぷりと暮れてネオンと騒音と雑踏の中だ。

この通り、仕事の行き帰りにふさわしくない。どちらといえば遊びの通りで、いましも背嚢(?)を背負い、顔に迷彩(?)をした女の子に突き当たり睨まれた。

こんなのは昔、屈強な兵士の格好だよなあと思う。どだい年上の男の前面を、通過しようとするのも大胆不敵だ。待てよ、これは性的偏見というやつかもしれん。しかし厭ですねえ。

不思議とニシさんはすいすいと歩く。どうも背嚢には当たらぬらしい。前で立ち止まって待っている。

「?」

「あれは東洋中華の国と西洋中華の国の、エゴとエゴがぶつかって起きた事故ですよ」僕の顔を見て、笑いながらニシさんが繰り返す。

「なるほど」

ちょうど右側にフランス・レストランがあり、角の向こうに中華料理屋の看板がある。
航空音痴まるだし、だけど正義の使者、マスコミ情報を根拠にしての見解だが、本質を突いている。

「なるほど」「東洋中華がエレベーターを握り、西洋中華がホリゾンタル・スタビライザーを握っている。フライング・テイルではスタビライザーの方が強いから勝負はあり、ですよ」

「さわるなと声もかけない」

「だから中華」

「ここまで来ると、マシーンよりマン対マンなんだよな。マシーンはマンの結果だから」

「そう。ハイテクはソフト、理念や哲学が利いてくるんだと思いますよ」

「ハイテクといえば一太郎がまたバージョン・アップするそうだね。この間バージョン4を買ったばかりだぜ」

「旧いマシーンでは走らなくなる。ありゃあパソコンのハード屋とソフト屋、ぐるになっているんですよきっと」

地下道の入り口で本屋に行きたいとニシさんが横断歩道を渡っていった。


パソコン
機種選定にはいささか自負がある。機種といってもパソコンではない。ヘリコプターである。

飛ぶことは素晴らしいことだがあくまで個人に属すること。もしせねばならないことがあるなら、機種選定が僕の仕事と思っていた。

機種選定にはシミュレーションが必要である。エアラインなら路線ごとのシミュレーションで済むのだろうが、ヘリコプターは農薬散布とか資材輸送とか、バリエーションが多すぎて大変だ。代入する数値は平均をとるにしても、そもそも資料がないのだから骨が折れる。

どうしたかって?

もちろん自分で飛んで自分で計って、記録し分析し、シミュレーションの式も作った。水田散布、山林散布、野鼠駆除、除草剤散布、緑化工事、送電線パトロール、報道取材、資材輸送、オフショアー、自分でできない仕事は社内のデーターをあさった。

とにかく資料が揃って式ができても当時は電卓もなく、計算尺を使っていた。長い計算尺は出張で持って歩くには不便だし、短い計算尺は目がはずれる。そこで円盤計算尺が必需品になった。

この計算尺のいいところは、インデックスを入れれば航法計算もできる点だが、熱には弱く日なたに放り出しておくと波打ってしまう。ジャンパーのポケットに入れておいて農薬散布が済み、やれやれと思ったら草加煎餅のようになっている。安いからすぐ買い換えができて、10個はオーバーだが、たぶん遠くない数ほど買ったろうと思う。
だから電卓が出てきたときは感動したし、これも何個買ったかわらない。そんなこんなしてるうちにコンピューターが欲しくてたまらない出来事に出くわした。

たしか昭和44年だったろう、ペトロリアム・ヘリコプターの部品管理を見せられたのが始まりだ。PHIは機数がすでに400機もあって、IBM340が管理している。整備管理で☆印インデックスが出れば発注する仕掛けだ。他愛もないが、設定されたパイプライン・タイムで「☆」が出てくるのが生々しい。

さりとて僕の懐でコンピューターが買えるわけもなく、欲しい欲しいと雑誌を読んでため息を吐いていた。

ところが8ビットのパソコンが出てきて、俄に夢が近づくではないか。富士通のFM7とかNECのPC8800だ。しかし8ビットでは漢字が使えない。横文字とカタカナには不満があるので、16ビットの漢字搭載機が出るとすぐ飛びついた。

まず買ったのがマルチプラン、表計算ソフトのはしりだから罫線も引けない。それでもシミュレーションには涙が出るほど素晴らしい。感激感激また感激であった。


太郎の物語
もちろん表計算ソフトだけでなく、ワープロ・ソフトも買った。太郎である。それがいくらも使わないうちに一太郎になって頭に来た。

たしかに便利になるから厭でもバージョン・アップしなければならない。3にしたら4になり5になって、そろそろ追跡が困難になってきた。

ともかく強引に歳を感じさせるのが気にくわない。マシーンには強いと思っているのに自負もへったくれもなく、バージョン6では使えぬファンクションの方が多くなった。

やむなくマニュアル片手に機能を覚えるのだが、たまにしか使わぬものはすぐ忘れてしまう。またマニュアルを出して探す羽目になるのだが、なかなか見つからず「ちくしょうめ!」

それでも悪戦苦闘していたら、バージョン7が出るとテレビが騒いでいる。チョン髷のいい男が画面を走ってきて、7でなければ一太郎でないようなことを言う。またかよと苦々しい。よし! こんどは無視してやるぞ。

ところがダイレクト・メールが来て、開ければCD-ROMが入っているではないか。こうなれば決心も何のその、たちまちインストールしてしまった。ところが、遅い、まるで遅い。
あわててマニュアルを見たら推奨メモリーが32MBと書いてある。おのれ!

泣く泣くパソコン屋に行ってメモリーを買った。大枚3万円がパアである。使いもしないファンクションに金を出さされるのが業腹だ。

出来もしないのに見栄を張るのが愚かしいが、ついその気になるのが腹が立つ。こんどバージョン・アップしてももう知らねえぞ。

司馬遼太郎はこの国を「太郎の国」と言い、歴史を「太郎の国の物語」と言った。そういう意味では僕は典型的な太郎であり、ティピカル・ジャパニーズ、自らヤポネシア土人と思っている。一太郎ごときに鼻面引き回されてたまるかと思うが、まさにマシーンとの関係が図式通りなのである。

マシーンはかの国から教わったものだ。自分で生み出したのでない歴史の欠落がある。技術大国を自称しても、どこか足りない所があるのだ。


ボーイング
飛行機はアメリカで生まれた。誕生の時がまた隠喩に富んでいる。

たぶんその時代、多くの人はラングレイ教授が最初に飛ぶと思っていた。政府の補助金も出ていて、万人注視のワシントンで派手な飛行を試みているのだ。それにひきかえ、ライト兄弟はまったく注目されてはいない。淋しいキティホークの丘で黙々と孤独な挑戦をしている。初飛行の時、見ていた人はたった6人だった。

なぜラングレイ機は飛べずライト機が飛べたのか、力学的なことを言う気はない。しかしラングレイは自分で飛ばず助手のマンリーを飛ばした。不幸にもマンリーは、2度も冷たいポトマック河で泳ぐ結果になった。

対照的にライト兄弟は自分で飛行機を作り自分で飛んでいる。ずいぶん怪我もし、飛ぶ結果に何が起きるか十分に承知していた。この一点がまるで違う。理屈ではない。作り手が墜落する痛さを知っているかいないかだ。

ラングレイが用意した座席は、「墜落するかもしれない立場」「死ぬかもしれない立場」をほとんど考慮していない。マンリーが泳ぐだけで済んだのは神の加護と言うよりほかはないだろう。マン・マシーン・マンの、後ろのマンが全く無視されている。

ボーイングは旅客機の代名詞である。

かつてボーイング・ボーイングという劇場コメディがあって、映画にもなっている。トニー・カーチスが軽妙に演じた。

ボーイングは1960年代すでに社会に定着もしているし、事実いまも、空港で見る機体の大部分はボーイング製である。
ボーイング社を創立したウイリアム・エドワード・ボーイングは裕福な材木商の息子であった。友達のウェスターベルトと飛行機会社を作ろうとしたとき、まず最初にしたことは操縦を習うことだった。

飛ぶことを知らずに良い飛行機はつくれないということだが、「墜落するかもしれない立場」の理解から始めたともいえる。並のぼんぼんではない。

最初に作ったB&W複葉水上機のテストはボーイング自身が行っているし、マン・マシーン・マンの真髄が分かっていた。

B&W複葉水上機は売れたが、販売に先立って専任のパイロットがテストしている。ここがまたボーイングの非凡なところだろう。経営者としての判断と、パイロットとしての立場にはっきりした区別がついている。ややもすればパイロットに流れる感情を、抑えられる明晰な意志がある。なぜボーイング社が息長く存続し得たか、その社風を見る思いがするではないか。

アメリカはパイロットが飛行機会社を興した。太郎の国と決定的に違うところだ。しかしライトにしてもカーチスにしても、飛行機会社を興したパイロットたちは、パイロットに拘りが強く、永続する社風を作れていない。その点ボーイングは見事というよりほかはない。

ウイリアム・ボーイングは1930年代で引退したが、社風は脈々と今日に受け継がれている。中興の祖といわれるウイリアム・マクファーソン・アレンに至っては、飛行中のボーイング旅客機の中で生まれたということだ。


セスナとビーチ
飛行機のパイロットでセスナとビーチの世話にならなかった人はまれだろう。メンターやT-3、T-5はもともとビーチだし、セスナは軽飛行機の代名詞になっている。

セスナもビーチも創始者の名前で、いずれもパイロットだった。一時はステアマンと3人で会社を興しているが、個性が強くて長続きせず、わずか2年で袂を分かった。最初に独立したステアマンは練習機で成功したが、最後はボーイングに吸収されてしまった。

クライド・セスナはパイロットというよりむしろエンジニアーだった。飛行機に取り憑かれたのはブレリオの単葉機を見てで、以後終始単葉機を作り続けている。

スケッチを頼りに見よう見まねで作った最初の機体は、何度も墜落し、機外に放り出されたり怪我もしている。なんと15回も修理を繰り返してやっとものにした。さすが財産を使い果たして生活に困窮し、妻子を連れて故郷に帰っている。

それでも諦めきれず納屋を改造して飛行機を作り、その機体で各地を巡回し資金と生活費を稼いだ。そして再び会社を興したのである。ビーチとステアマンはその共同経営者であった。
ビーチと分かれる原因はセスナがあくまで単葉に拘ったからだ。時代は1920年代、いまでこそ単葉は普通だが、当時は複葉が全盛の時代で、セスナの先見と執念は受け入れられなかった。社長ではあったが自ら身をひき、3度目の会社を作っている。だが不運にも世界不況に襲われ、会社は他人の手に渡って不遇のうちに世を去っている。

ウオルター・ビーチは第1次世界大戦を飛行教官として過ごし、戦後はドサ回りのバーンストーマーをしていた。しかしどうしても自分の理想とする飛行機が作りたくてセスナの門を叩き、新しい会社を発足させた。

セスナと一緒に会社を作ったものの、単葉に拘るセスナと理念が合わず、セスナが去って社長となった後も複葉機を作り続けた。不況もカーチスと提携して凌ぎ、傘下に入って飛行機を作り続けている。

このあたりの柔らかさはセスナに無い能力だ。結局カーチスを離れて独立を果たした。雌伏する我慢強さがある。今なおビーチが存続しているのは、現実的に対応する柔軟性があるからに違いない。ビーチ社が最も信頼される小型機メーカーである土台は、創始者ウオルター・ビーチの、時に逆らわないポリシーに大きく由来しているのだろう。

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