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(5)農業依存
騎馬民族から見た農業国家は、おいしい略奪の対象だった。そ奴らは地面をほじくり返す卑しい民であり、略奪しても心の負担にもならない。それでいて食料や財宝をしこたま持っているのだからたまらない。しばしば攻めた。万里の長城を築かれて難しくなったが、それならと西を攻め、民族の大移動を引き起こした。
ヘリコプターは農業を敵としたわけではない。しかし農業なくして日本のヘリコプターは育たなかった。栄養の元にしたという点では騎馬民族と似ている。
●牧畜
動物が命を永らえるためには何かを食べなければならない。植物を食べるのが草食動物、動物を捕食するのが肉食動物だと学者先生がのたまう。器用なのが雑食動物で、植物も動物も食べる。人間さまは万物の霊長だからもちろん器用な部類に属し、植物も食べれば動物も食べることができる。
昔々、人間がそれほど器用でなかった昔は、植物を採集して生活していたらしい。別の人たちは狩猟で生活していたと、社会科の教科書に書いてあった。
ところが採集や狩猟は不安定だ。運が悪ければたちまち飢える。これはつらい。そこで頭のいい人がいて、再生産を思いついた。採集は農業になり狩猟が牧畜になる。日本でいえば縄文から弥生への進化だ。
近頃やたら縄文時代に人気があるが、生活となるとロマンとは別だ。気楽に縄文を驚いてばかりはいられない。飢えの非情さを知っていたら、手放しで礼賛などできようはずは無いのである。
再生産の効率は農業のほうがはるかに優れている。切羽詰ったところが無い。したがって農業は平和的なのだが、牧畜は知恵を働かせないと飢えたりもする。定着に耐えるだけの草が無ければ草を求めて遊牧しなければならぬ。油断がならない。だから牧畜民のほうが知恵がまわり、戦闘的にならざるを得ない。
古代中国で、国家を成立させたのはたぶんに牧畜の影響を受けた人々だったろうと思う。「美」しいとか「幸」せとか、よいことの文字に「羊」があるのは、文明の初期は牧畜に携わっていた証拠に思える。始皇帝の秦は濃厚に牧畜の匂いがする。文字を統一するにあたって民族の価値観を入れたに違いない。
「翔」という字は羽を広げた「羊」である。どんな生き物かを想像すると気が狂いそうになる。丸々と太った「羊」が空を飛んでいるなど想像もしたくもない。だが、そうではなくて、羽を広げて飛ぶ姿は美しいとか、あんなに飛べたら幸せだろうと、羨ましく思う気持ちの字だと思えば納得がいく。
飛びたいと思い、飛ぶことで人生を過ごしてきたからの勝手な解釈だが、ひそかにそう思っている。これは脱線だが。
●農業
農業とは地面を耕し植物を育てることだ。植物は実を結びそれを人間が食べる。根や茎、あるいは葉を食べることもあるが、主食はあくまでも実である。実では味気ないなら穀物と呼んだらよいのだろう。(イモは実でないと言われても困る。アバウトな話)
育てるのは植物だが何でも良いというわけにはいかない。毒にならず栄養があって栽培ができ、単位の面積からたくさん採れなければならない。それこそ生産性が高い必要がある。
麦と米とトウモロコシ、これが世界の主食になったが、歴史に最初に登場するのは麦である。そして騎馬民族が略奪の対象とした地帯は麦を作っていた。乾燥した地帯の縁辺だから当然そうなる。後に帝国が広がり、米の地帯に侵略したのはだいぶ時代が下がってからである。
農業は蓄えをつくり農民はおとなしいから、略奪はきわめて容易であった。それに実る時期は一定だから、襲うにしても見当は付け易い。そろそろ収穫も終わり貯まったころだろうと襲撃する。襲われる農民こそ迷惑この上ない。
それより困るのは農民の支配者だ。税として納められる穀物がごっそり持っていかれてしまったら、それこそ統治の根底が失われる。
俄かに黒澤監督の「七人の侍」を思い出した。騎馬の野伏せりの群れが貧しい集落を襲う。7人の浪人が雇われこれを防ぐ話だが、雨の中の攻防がリアルであった。世界の名画として衝撃を与え、ユル・ブリンナーやスティーブン・スピルバーグを感動させたのも無理はない。
映画では農民が勝つが、勝たねば映画にはならない。だが本来なら逆だろうし、あれが騎馬の威力なんだろうなと思う。勝つ工夫が劇的で、だからこそ面白いのだろうけれど、普通ならやはり騎馬には勝てないのだろうと思う。
野伏せりたちは農民に依存している。強奪していくのだから依存なんて生易しいものではないのだが、農民がいなければ生活が成り立たないという意味では、やはり依存だ。
正規の武士は乱暴な手段を取らない。5公5民などとルールを作るが、依存の関係には違いが無い。かわりに乱暴な野伏せりから村々を守って武士であり、戦国大名は領国の治安を必死に守った。むしろ可憐に守ったというのが近い。
映画のように野伏せりの跳梁を見逃せば、すぐ取って代わる者が現れる。たぶん「七人の侍」など活躍する暇は無かったろう。西洋史観が作った幻だが、固唾を飲んで見なければ申し訳が立たぬ。
●農薬散布
稲作は麦作りよりもっと緻密だ。地面をほじくり返すだけではない。とくに弥生式集約稲作は精緻を極める。細かな幾重ものプロセスで成り立ち、それがもたらした精神はこの国の心の隅々を支配している。世界の歴史にあるような、殺伐とした略奪など何処を捜しても無い。為政者だって心得ている。
西欧史観が入ってきて、単細胞的観念の対比で、略奪とか搾取など荒々しい想念が支配しているが、たぶん似て非なるものだ。特に江戸期には、苛政を行った大名は口実になってすぐ取り潰された。上杉鷹山が名君といわれる理由を考えれば、大名が略奪とか搾取などとはほど遠いことが分かる。
稲作の基本プロセスは田植え、草取り、虫追い、刈り取りになる。代掻きから水管理、一番草から二番草、虫追いの儀式や収穫の祭りなど、弥生式稲作には常に田を見回る行程と、折々の喜びが根になっている。「汗はしたたる禾下の土」なにかで見かけた一節だが、ほんとうに稲作にふさわしい。
ヘリコプターは収穫物を狙う存在ではない。耕作のプロセスに組み込まれ、虫追いを担当する。雇われ請負人で略奪や搾取という無法の存在にほど遠い。しかし事業として定着する過程や発展の歴史を考えると、旅から旅の放浪で、なにかしら騎馬民族を連想させる。おおよそ農業とは似つかぬ存在なのだ。
技術を応用して防除も担当する。刈り入れを早めるために乾燥剤を撒いたこともあった。プロセスを合理化する目的で播種に挑戦したりもした。だがついに主流にはなれなかった。いまでもヘリコプターは虫追人なのである。
農業と工業は親戚だから、工業化は農業の合理化を土台にしなければならない。かつて昭和の昔、この国が本格的な工業立国を目指したとき、農業の急速な合理化が必要であった。その手助けをしたのがヘリコプターである。ヘリコプターは農業合理化の立役者だったのだ。とくに稲作専業地東北では、合理化に不可欠な働き手であった。夏の暑いとき、3ちゃん農業を可能にしたのはヘリコプターなのである。
昭和30年代の後半、ヘリコプターが事業として自立できたのは農業に依存できたからだ。航空機でありながら養父は農業なのである。
内心ひそかにヘリコプターは小作人だと思っている。だからといって卑下しているわけではない。この国の歴史、弥生式稲作の一端に参加していたと誇りにしているのだ。文句あるかと開き直っているのだが、大っぴらに言ったら闇夜の晩は歩けまい。なにしろ農業は人気が無く、嫁の来手も無いほどだから。
近頃は工業化社会が情報化社会へと移るのだそうである。農業を底辺で支えてきたヘリコプターにも陰りが見える。そうなんだろうなあと思い、情報化についていかれる仕事は何なんだろうと思ったりしている。
●気風
ヘリコプターは略奪しない。農業に依存して大きくなった。しかし気風は農業と別だ。誰に似ているかというと騎馬の民だろうと思う。どこにも所属せず、自由闊達に空を駆け、草を追って旅をする。辺境にいることも定着できないことも大して苦にはならなかった。まあ近頃は知らないけれど。
(4)辺境
辺境というと地の果てという趣がある。あるいは文化果てるところだろう。農耕民族からすれば、草原は辺境であった。そこには宮殿も無く彩る文物も無い。大きな仏像を建立することはないし、賑わう市場も無い。あるのは茫漠たる大地と草だけだ。
●蒼穹の大地
騎馬民族が生きる場所は草原だ。生産性が低く人は群れて生きることはできない。もし群れて住めば、たちまちにして飢えてしまうだろう。
生産性が高い土地で、群れて生きられるのは都合がいい。だが群れて住めば秩序が要る。秩序は人を縛る。縛られても安穏だから人は群れる。群れて村落になり、大きくなれば町であり都市になる。
秩序は価値観を生み、価値観にしたがって文化を作る。中国古代の青銅器文様も、日本の縄文式土器の文様も、それぞれの価値観が作り出したものだろう。
都市の周辺は鄙だ。鄙を遠く離れればそこが辺境に違いない。都市秩序の遠く及ばない地域である。秩序の体系が文明だから、辺境は都市の対語として存在する。その昔中国では都が西安か長安か、どこにあったにせよ長城の向こうは辺境であった。そこに住むのは化外の民である。
しからば辺境に住む民が劣等感を持っていたかというとそうばかりではないらしい。ここが不思議なところだが、生半可な都市文明を持つとそれ以上の文明に劣等感が生まれる。たぶん秩序の大きさに圧倒されるからだ。
ところが価値観が違うと思えば秩序の方程式などてんで気にならないものらしい。草原の民は長城の中の秩序には何の関心も無く、ただ財宝だけに興味を持った。まるで草原に石ころでも拾うような気分で採りに行く。都市文明の人はそれを盗りに行くというのだが。
ヘリコプターは空の辺境を飛んできた。
農村とか山奥の村落を辺境と呼んだら叱られてしまうだろう。都市の対比というわけではない。日本の村落は都市に近接しているし、だいいち国全体が都市のようなものだ。
辺境というのは秩序に対してである。もっと具体的には航空法やその施行規則に対してだ。法すなわち秩序が想定する領域の辺境にヘリコプターは棲んでいた。ひょっとすると、今でも辺境に棲んでいるのかもしれない。
ヘリコプター飛行の多くは航空法の枠外にある。垣根の外なのだ。たとえば離着陸する場所は農道のときもあるし林道のこともある。グランドや土手の上、崖の端のこともある。法が領域としている飛行場とかヘリポートはむしろ稀なのだ。だからもし、飛行場やヘリポートを長城の内とするならば、ヘリコプターが離着陸する場所は長城の外である。
空から物を落としてはいけない。地上にいる人たちに迷惑を掛けないのが秩序である。しかしヘリコプターの仕事は農薬散布から始まった。農薬を落とす。微粒子だからという理屈は通らない。ともかくモノを落とすのだし、領域内の秩序に反することをやる。それが原点なのだ。
空は立体である。高さがあるが、低く飛べば何かの拍子に地上にいる人たちに迷惑が掛かる。それではいけないから飛ぶ最低の高度を決めた。原則150m。
ヘリコプターはこの秩序にも素直に従えない。農薬散布は15mで、原則よりもはなはだ低い。送電線巡視は70mくらい、資材輸送でも地面より100mである。報道取材は現場まで150m以上で飛ぶが、現場取材では100m以下になることもしばしばだ。重大ニュースともなろうという事件なら、パイロットの固い決意もすぐ危ないものになる。
空の領域は管制圏とか管制区など、航空文明の及ぶ範囲がある。もっともティピカルなのが旅客機の飛ぶ航空路だ。しかし高度200m以下は航空文明果てる領域で、ヘリコプターはそこを棲家にする。
ヘリコプターは航空の辺境を駆け域外に棲んで、あるのは無窮の蒼空だ。つい騎馬民族と同じだなあと思ってしまう。
●垣根
中国文明は域外を確定する線を作った。万里の長城である。「長城に至らずんば英雄にあらず」毛沢東か誰か、中国の偉い人が言ったと聞いて4回も長城に行った。はなはだご苦労様なことである。英雄とは露思わぬが、心のどこかに域外に住みたい願望が潜んでいて、願望がふくらんだ結果かもしれない。
空に境界が描かれているわけではない。長城のように石積みでなくとも、管制圏は赤線で、管制区は青線などであったら面白かろうと思う。でもそうなったらきっと詩人が怒るだろう。たとえ詩人でなくても、空を見上げたら線だらけでは生きているのが厭になる。
替わりに空の玄関に垣根を作った。飛行場やヘリポートは垣根に囲まれている。
駐機場は垣根の中になるが、許可証がなければ入れない。胸にパスを付けておかないと呼び止められて不愉快な思いをする。旅客なら決められた通路とおり、垣根を意識せずに飛行機に乗り込める。と思ったが、ゲートでチェックを受けるのだからやっぱり垣根はあることになる。
この間家族そろって海外に旅をした。9人がゲートをくぐったのだが、つっけんどんなチャイムが鳴ったのは僕だけだった。小銭入れとか何もかも身に付けていないはずが鳴る。気分悪いったらありゃしない。心がけが悪いとか、金歯のせいだとか、しばらく家族の笑いの種になった。
こんなことがあった。
長崎空港が開港した数日後の話だ。そのころ福岡空港をベースに、ベル212で天草沖の石油リグのサポートをしていた。たまたま長崎から技術者を拾って天草沖に飛ぶ。先行して着陸し、真新しい空港ビルを見物することにした。
到着便のアナウンスがあったから、切り上げて通用ゲートまできて悶着になった。ランプパスが無いから入れないというのだ。乗機が金網の向こうでつくねんとしている。
普通は運用のベースではない空港のパスは持たない。そうでなければ国中の空港のパスを持たなければならず、バッグにいっぱいのパスを持って歩くことになって漫画だ。説明して身分証明でも見せれば埒があくのだけれど、なにしろ開港したばかりの空港で、四角四面も居丈高である。
「それならラインのパイロットはどうなる。ウオーク・アラウンドしている彼らがパスを身に付けていなかったら追い出すのか」
「あの人たちは制服を着ている」
「オレだって会社の制服を着ている」
「あの人たちは金モールをつけている」
「外見で差別するのか」
声高な悶着を聞きつけ人が来た。どうやらヘリコプターのクルーと認めてもらって乗機にたどり着けたが、不愉快千番極まりない。
ところが天草を折り返して長崎空港にアプローチしながらまずいことになったと思った。212は5トンあって2本の頑丈なスキッド、出来たてのランプに麗々しく痕がついている。ファイナルからも見えるではないか。また悶着と思って滅入った。
着陸するやいなやライトバンが駆けつけてきて、怒り心頭に発した職員が飛び出してきた。マッサラな駐機場をどうしてくれると血相が変わっている。とっさに反論を組み立てるのも容易ではない。さりとておめおめ屈することもできず、のらくらしていたら空港長がジープで駆けつけてきた。いよいよいけない。
ところが空港長はしばらくヘリコプターとスキッド痕を見ていたが、「このヘリコプターはちゃんと登録されてJAナンバーを持っている。どの空港のランプにも駐機できる権利がある。駐機してランプが壊れたら機体が悪いのではなく、ランプのほうが悪い。不愉快な思いをさせて済みませんでした」
これには心底驚いた。稀有な役人である。血相変えていた役人も顔色がない。つくづく偏見はいけないと反省した。
ケリは付いたが痕跡は痕跡だ。空港長だって内心は痛かろう。そこで引き止める空港長に丁重にお願いし、草原に移動して駐機することにした。
ゲートのクルーといい、ランプのベル212といい、ヘリコプターはやっぱり域外に棲み、草原を疾駆する化外の民なのである。
ただ域内をどう評価するかはヘリコプターの勝手だ。上目で見る輩もあるだろうし、どこ吹く風で馬を飛ばせても理不尽ではない。 |