脚のひとりごと/01
text : Toyoaki Miyata
進化論の起源はもちろん西欧で、動物や植物の原理だが人類は別格にした。たぶんキリスト教の影響だろう。宗教の凄いところだ。人類が進化の結果であり、類人猿の末裔であるとは天地創造の教義にそぐわない。ヒトは神によって作られた特別な地位にいなければならぬ。

ダーウインはキリストの教義を根底から覆す己の理論に20年も悩み、悩んだ末に自然淘汰説を発表した。当然囂々たる非難を浴びせられたが、反対者も科学的には論破できず、次第に受け入れられていったのである。

しかし偏見は色濃く、アフリカでアウストラロピテクスの化石が発見されたとき、人類と類人猿を結ぶ「ミッシング・リンク」とは認められなかった。最大の論拠は脳の大きさである。

進化論は認めたものの、人類が他の動物から区別されるのは特別に大きい脳のためである。脳が進化の主役であり、手足の機能に先んじて大きくなる。なると疑わぬ人々がいて、それは確固たる信念であった。
脳が大きければ大きいだけ進化していると考え、進化論者が人間の脳の測定にかけた努力は計り知れない。白人の脳は大きく、黄色人種や黒人の脳が小さいことを情熱的に証明しようとした。アウストラロピテクスの脳は類人猿の脳と同じ大きさだから、とても「ミッシング・リンク」とは思えない。そして中間の大きさの脳を懸命に探したのである。

かけた時間や努力にかかわらず、天才の脳が特別大きいとは証明できなかったし、黒人の脳が小さいことも証明できなかった。研究が進んで解ったことは、進化の最初は脳ではなくて脚であったらしい。直立2足歩行が手を解放し、上手に動かすために脳が発達した。どうも順序はそのようだ。

脳が原因ではなく、結果であるというのは寓意に富んでいる。はじめに脚ありきが面白い。知性より前に、何かがあるのは嬉しくてしようがない。だから飛行機やヘリコプターや鳥類でも、脚にもっと敬意が払われてもよいと考えている。

まあ屁理屈でもいいではないか。


グラマンの脚
だがしかし、まさに脚から発想された飛行機があった。グラマンの戦闘機たちである。

彼らの名前はワイルドキャットやヘルキャットだから、鳥の足でなくて猫の足というべきかもしれない。彼らを2階から落としても、あざやかに反転して音もなく接地する。もしどこかでグラマンを感動させたとして、それが猫の足だったと説明されても奇異に思わない。

空を飛ぶのが飛行機の使命である。日本人なら信じて疑わない。不器用に地上を歩く足に合わせ、飛行機を設計するなどは本末転倒もよいところ、アホではないかと思うだろう。あり得ないことだ。

ところがグラマンはこの脚でアメリカ海軍御用達となり、主力艦上戦闘機メーカーとしての地位を勝ち取ったのだから面白い。

グラマンは1929年に発足した後発航空会社であった。世界恐慌の最中であり、駆け出しのグラマンはどうしても仕事が欲しい。たまたま海軍にコルセア観測機を水陸両用機にする計画があり、それに飛びついた。そして作り出した引込機構が大成功し、その後のグラマンを決めたのである。まさに足から始まった会社なのである。

そのころ艦上戦闘機の主力は固定脚のボーイングF4Bであったが、海軍はグラマンにコルセアの脚を取り付けないかと持ちかけた。だいぶグラマンの脚が気に入ったようである。

さて海軍から話が持ちかけられたグラマンは青雲の志に燃えている。改造なんかで気が済むわけはない。はいそうですかと言う代わりに新戦闘機を設計して応えた。FFである。

できあがったFFの胴体は脚の機構に合わせて太く、これがまたグラマンのトレード・マークになった。以来F2F、F3F、F4Fと足に合わせた設計がされ、太平洋で零戦と戦った。
F4Fワイルドキャットの脚は胴体に入るから中翼になり、下方視界を妨げる。おまけに零戦とほぼ同じ馬力で重かったから、旋回戦闘で勝ち目はない。しかし善戦した。今でもアメリカ海兵隊の正式戦史では、ワイルドキャットを零戦より劣る兵器としてはいない。

日本人はチャンチャンバラバラの一騎打ちが大好きで、戦記物などそれ以外はない。長篠の戦いなどは例外で、だからアメリカ海兵隊は虚勢を張っていると思っている。

ワイルドキャットF4Fは性能で零戦に劣ったが、脚のお陰で翼が短く折り畳める。同じ空母スペースで多くの機数が収容できるのだ。兵理の原則は速度と数である。旋回戦闘をやめ、突進を武器にして勝つ。ウエーキで奮闘し、ガダルカナルでは遂に零戦を押し戻した。サッチ・ウイーブもこの機種から始まっている。

F6Fヘルキャットはさすが脚を胴体にしまうのをやめたが、90度ひねって格納している。翼を折り畳んで、数の優位をがっちり守ろうというわけだ。相変わらずの太い胴体に2,000馬力のエンジンを積み、鉄砲の数で有無を言わさず太平洋を圧倒した。平凡な飛行機と負け惜しみするが、一直線に斬撃する示現流みたいな戦闘機である。

考えてみれば、グラマンが桁に沿って素直に脚を引っ込めたのはF8Fベアキャットだけで、これは戦争が無くなって不遇に終わっている。もし戦いが長引いたら、噂の「烈風」はこいつと闘うことになったろう。とても勝てたとは思えない。


零戦の脚
グラマンならば当然相手は零戦だ。油圧で作動し翼に脚が収まるごく普通の引込機構である。だが例のごとくオリジナルではない。

零戦は最も有名な日本機だけでなく、日本海軍最初の引込脚艦上戦闘機だった。12試として設計を始めたとき、手本にしたのが中島10試艦上攻撃機の脚であった。10試艦攻は制式名97式1号艦上攻撃機である。真珠湾を襲撃した主力機で、トラトラトラを発信した。

当時油圧装置に関しては中島飛行機がリードしており、さすがの三菱にもコピーに拘りがなかったようだ。いや拘りなどというものでなく、四の五の言っていられない状況だったのだろう。さすが誇り高い堀越二郎さんも認め、淡々とコピーを告白している。

ところが進んでいるはずの中島も、零戦のわずか3年前、10試艦攻が初めての引込脚なのである。しかも輸入したノースロップ機を手本にしている。当時は日本の航空工業が自立を始めたときだったが、念のために先進国から輸入も行われていた。その中にノースロップC2があったのである。

C2は一世を風靡したアルファやガンマを土台にしており、後にA-17として採用され100機ほどが輸出されている。その1機が日本にも来た。性能は模倣するほどではなかったが、低翼単葉の全金属製機の構造や機構では、学ぶところが多かった機体であった。

A-17の初期型は固定脚で、輸入されたのはこのタイプであった。引込脚は1935年の12月から発注を受けているので、10試艦攻の設計が始まったときには写真しかなく、中島はこの写真をもとに引込脚を作り上げた。本の挿し絵から蒸気船を作り上げた先人を、彷彿とさせる話である。
ともかく引込式の脚は作ったのだが、うまく作動しない。いざ着陸しようと思ったら下りてくれないのだ。使ったプレーン・ベアリングでは抵抗が大きくてスムーズに働かない。調べたらアメリカではニードル・ベアリングを使っているのが分かり、さっそく交換している。

ノースロップA-17とは違う説もあって、チャンス・ボートV143の模倣だともいう。いずれにしても零戦は中島を真似た。したがってコピーなのだが、それでも七転八倒の苦しみがあり、10試艦攻も12試艦戦も脚の故障に悩まされた。機体故障の半分は脚関係であったと堀越さんは言っている。

脚は着陸の衝撃に耐えなければならない。落着するかもしれないし、滑って接地するかも分からない。単純に機体の重量を支えるだけでは済まないし、ブレーキの荷重にも頑張る。

よく見ると零戦の脚も、車輪の上下中心線は折り畳み軸の中心を通っている。軸に曲げモーメントが掛からないようにするためだ。リンクに負担はかけられない。

太平洋決戦機と呼ばれた疾風・キ84がいる飛行場には、必ず脚が折れて擱座している機体があったといわれている。差はわずかに3年、隼より4割も重くなって、着速も速くなり、脚は倍近いエネルギーを吸収しなければならない。

海軍の紫電になると中翼で脚が長い。重さも着速も疾風と同じくらいだから更に故障する。とても有力な戦力にはならない。

脚は基礎工業力のシンボルである。残念ながら折れる脚が日本の限界を示していた。敗戦は避けようがなかったのである。


スピットの脚とメッサーの脚
零戦や隼と同世代のドイツ主力戦闘機はメッサーシュミットBf109である。イギリスはスーパーマリンのスピットファイアだ。いずれも零戦より少し前に生まれたから、固定脚から引込脚への過渡期を引きずった。

メッサーシュミットもスピットファイアも、脚を胴体に取り付けることで引込脚の矛盾を解決しようとした。胴体なら補強も少なくて済むし、軽く仕上げることができる。引込脚のデメリットを最小にして、メリットが大きい。すごく良い案に思えただろう。

しかしそうは問屋が卸さなかった。確かに重量を押さえることができたが、車輪間隔が狭く、離着陸事故が無視できない。若手の経験が少ないパイロットにとっては、油断も隙もない機体になった。グランド・ループが鬼門なのである。

ラウンドアウトする。でっかいエンジンが前方を隠し見えない。ステックをフルバックにして神経質にラダーを踏む。意味があってもなくても、ラダーをヒラヒラさせないではいられない。
3点よりもっと起こして尾輪から接地するつもり。横風ウイングローではもっと切ない。 T-6テキサンの車輪も狭かったから分かるんだよなあ。メッサーシュミットはもっと狭く、着速も速かった。さぞや大変だったろう。

それでもスピットのエンジンはV型で、減速するからプロペラ軸は高いところにある。脚は短くてよいがメッサーは倒立Vだ。軸が低くてそのぶん脚が長い。これはいよいよ事である。

ドイツは最後までメッサーで戦った。負けが混んで、未熟なパイロットが重いG型を乗りこなせなくなれば、ハンディはますます大きい。空は非情なのである。メッサーの華奢な脚は、落日の第3帝国を支えることができなかった。

グラマンの脚も考えれば胴体に付いていた。変わり目の脚は苦しい。零戦の脚はコピーではあるがメッサーの真似などしていない、どの脚が優れているか、真似上手は選択の目は確かであった。


ゴムの脚
リリエンタールの機体は20kgに満たなかった。ハンググライダーだから文字通り足が脚である。自分の足で駈け、離陸し着陸した。走りもするし緩衝もするから脚の機能そのままだが、まあ飛行機の脚とは呼べない。

ライトのフライヤーの脚も、脚というには甚だ心許ない。カタパルトの台車に乗って離陸し、胴体と一緒になったソリで着陸した。脚が独立したのは飛べることが確かになってからである。とても脚まで気が回らなかったのだろう。

しかし第1次世界大戦のころになると、脚は脚らしくなる。フオン・リヒトホーヘンは深紅の3葉DrTで戦場を駈けた。80機も撃墜したトップエースで、レッドバロンと呼ばれ連合国から畏敬されている。3葉も特異な姿だが、車軸を覆うカバーまでも翼型にして揚力を発生したから驚く。

木と鉄とアルミでできた原始的な脚だが、脚の原理は全て備えている。複雑怪奇な脚よりこの方が、はるかに分かりやすい。

DrTの重量はわずか585kgだし、着速も60km/h程度に過ぎない。衝撃も小さいからアブゾーバーはゴムであった。ただし束ねられたゴムで、擦れないように被覆されている。

車軸は1本で、左右の車輪は両端に付く。その軸が細長いアルミの箱の中を上下できるようになっている。箱の端には鉄のタガがはめられていて、軸はゴムで止められている。
荷重がかかるとゴムが伸び、緩衝する。荷重が大きければ箱の上に当たってストッパーになる。脚柱は1対のV型トラスになっていた。地面からの垂直反力に強いし、後ろに取られる抵抗も支える。

当然というか勿論というか、主脚にブレーキという高級なモノは無い。尾輪の代わりにソリが付いていて、接地したら操縦桿をいっぱいに引く。押しつけられたソリは地面をひっかいてブレーキになるという寸法だ。

高校生のころ、ゴムと聞いたときにはウソのような気がしたが、衝撃が小さければタイヤとゴムで間に合うのである。今でもグライダーにはゴムのアブゾーバーさえ無く、タイヤだけで緩衝するものも結構多い。考えようによっては、ゴムがあるだけ上等とも言える。原始的と嗤うのはエンジニアリングを知らないヤカラになるらしい。

機体の重量が2トンにもなると、さすがゴムの脚というわけにはいかない。そこで内筒と外筒の間に油を閉じこめ、衝撃があると小さいオリフィスから吹き出して吸収し、空気のバネに乗るオレオができた。ゴムよりはるかに高級だが効果は素晴らしい。たちまち飛行機の脚はオレオになった。


飛行艇
飛行機はデリケート紳士だが、脚は暴力専門担当である。けれども粗野であることができないのが辛い。材質が悪ければすぐ折れるし、精度が悪ければ空気や油が漏る。ぎちぎち作れば下りなくなったりもする。したがって、大きい脚は難物だった。

金属製単葉が確立して大きい飛行機は作れたが、離着陸がままならない。飛行場の広さと滑走路強度が第1の理由だが、脚が追いつかなかったのも事実である。大きい飛行機にふさわしい脚が作れなかったのである。

リンドバーグが無着陸で大西洋を越えて英雄になり、時はちょうど大飛行時代であった。大洋を渡ることに人は熱中し、冒険飛行家が先鞭をつけるとすぐ大衆も渡りたがった。エンジンの信頼性も高まって、夢が間近にあると思わせたのだ。

フロリダに水上機専門の小さな航空会社がある。パンアメリカンといった。海の上を飛ぶのはお手のものである。

大洋を渡るには飛行艇が良い。たくさん燃料が必要で、大きい飛行機が要るが、飛行艇なら脚が無いからいくらでも大きく作れる。海は広くて気の済むまで滑走ができるし、離着陸にはもってこいだ。いや離着水にはもってこいだ。それに万一エンジンが止まっても、飛行艇なら海の上に浮かんでいられる。

パンアメリカンはシコルスキーやマーチン、ボーイングに4発飛行艇を作らせ、クリッパーと呼んだ。最初の機体はもちろんアメリカン・クリッパーだが、最も有名なのがチャイナ・クリッパーである。
太平洋には中継ぎの島が多い。いくら飛行艇といってもそれほど航続力は無かったから、島づたいに航路を開拓した。サンフランシスコ−ハワイ−ミッドウエー−ウエーキ−グアム−マニラ−ホンコンを結んで、1935年には太平洋航路を作っている。ここを飛んだのがマーチン130チャイナ・クリッパーだ。リンドバーグが大西洋を渡ったのが1927年だから、10年立たないうちに普通の人が太平洋を渡る時代にしてしまった。飛行艇にはそれだけの魅力があった。

マーチン130は翼幅39.6m、全長27.6m、全備重量が23.6トンである。同じ1935年にできた陸上機のDC-3が11トンだから、ほぼ倍ほどの巨人機だった。

シコルスキー・クリッパーとマーチン・クリッパーは、同じ所で同じようなアングルから撮った写真がある。金門橋の上なのだが、1年早いシコルスキーには橋脚だけ、マーチンには橋脚にワイヤーが写っている。足無し飛行機と脚だけの橋は、判じ物のようで面白い。

ボーイング・クリッパーになって大西洋が渡れるようになった。ケン・フォレットの「飛行艇クリッパーの客」という小説で読むと、雰囲気がよく分かる。路線はニューヨーク−ニューファンドランド−アイルランド−サザンプトンで、北大西洋を飛ぶ。幅46.3m、長さ32.3m、38トンの機体ではあったが、与圧がなかったから飛行は大変なことだったろう。まだ冒険の匂いがした。

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